旅の写真とスケッチ・紀行
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臆病もの山へ入る
一・やみ

 秋の夜、林道をひとり歩いている。道はゆっくりと登っている。雨が降り続いているけれど、地面を打つ音は聞こえてこない。
 道の両側をみっしり埋めている広葉樹の葉に溜った水が、ゆっくりと集まっては落ちる豆太鼓のような音の重なりが続いている。雨は、たいして降っていないのに、道には大きな水溜りが幾つもできていて、もうだいぶ前から降ったり止んだりしているようだ。雲は厚いようで、月明かりもない。
 見えるのは、心細い家庭用懐中電灯が照らしている足元の小さな円だけで、野宿の初心者にとっては割と大変な始まり方である。
 この道は確か三度目になる。車も通る林道だから轍の跡に水が溜る。平日の午後などには車どころか、途中にある採石場に通うダンプが四台も五台も連なってひどい土埃りをあげてゆく。その列が行過ぎるのを路肩にへばりついてやり過しては、ほんの一時間ほどの道を荷物を担いで昇る。すこしは辛い思いをしないと、素晴らしい思いをさせてくれる雑木林に申し訳がない。それに、山径はやっぱり足で歩くのが良い。木や草や虫や風や日射しが、細かな楽しみをつくってくれる。
 しかし、今回は秋雨の夜。まったくの闇のなかをゆく。懐中電灯はあるけれど……。
 道はくねくねと畝って登ってゆく。僕は明るい時にきた記憶をたどりながら、曲がり方や木のシルエットやせせらぎの音でどのあたりを歩いているのかを知ることができる。このあたり、晴れた日なら左側に八ヶ岳がどーんと座っているはずで、少し先の雑木林を右に分け入って行けば、いつもの感じの良い焚火の跡にたどりつけるはずだ。
 めざす雑木林への入口がわからない。
 確かにこのあたりに間違いないのだけれど、道に面した樹々は何処も同じように見える。適当に入り込めば良いのだが、真っ暗な林の中で迷うのは、あまりぞっとしない。一目散に闇のなかを抜け、そそくさといつもの場所に火を灯して安心したい。
 夜の山は怖い。草も木も虫も獣も土も音も皆怖い。
 怖いのを解って、好きで来ているのだ。『好き』は『怖い』に勝るのだ。だから怖くても進むしかないのだ。こんなことを考えて、林の入口で躊躇している。お化け屋敷に入るわけでもないのにと苦笑してしまったが、よく考えてみるとお化け屋敷より怖いのは道理だと思う。真っ暗闇の林の中でいきなり人にでも出くわしたら肝を潰す。頼りない懐中電灯の光の中だとなおさらだ。
 まあ、あれこれ言っていてもしょうがない。こういうことは「エイ」と一気にやってしまえば良いのだ。
 下草や、枝が繁っているので傘は厄介だ。折りたたんでバックパックにしまう。パックを開けたついでにラジカセをとりだして、持ってきているテープのなかではとりわけ明るくて賑やかなやつを、普段なら電池が勿体ないと思うぐらいのボリュームに調節してパックのポケットに戻す。鼻歌で、怖さを紛らせながら突入する魂胆だ。
 林道から、ここだと睨みをつけた二本の木の間に、口にマグライトをくわえて分け入った。
 えい、と出たものだから、勢いがついて小枝がしなり、葉に溜った雨水が跳ね返ってきてメガネを濡らし、前が見えなくなる。足元はよく照らしてみなかったけれど、じっとり濡れた下草がけっこう深かったようで、ジーンズがはや太腿に張りつく感じがする。
 こうなれば、もうやけくそである。枝が頬を叩こうが蜘蛛の巣のパックをされようが、ライトの光が照らし出す樹々のまばらなところに足を進めて行く。とにかくどんどん進む。目の前にある二、三本の幹しか見えないけれど、それらの太さや並び方は、その方向が間違っていないような気にさせてはくれる。本当はどれも同じようなもので、全く目印にはならないけれど。
 僕にとってその目的の場所にたどり着くためのしるべになるものは、かつての焚火の跡を見つけることしかなかった。真っ暗闇のなかのほんの小さな明かりに懐しい光景が浮び上がれば、僕が間違わずに進んできた証明になる。
 いちばん嫌なのは、闇の中を迷って行ったり来たりする羽目になることだから、勢いをつけて踏み込んできたけれど、やみくもに進んで行く勇気はない。少しずつでも正しく進んで、出来ることなら引き返すことなくたどり着きたかった。方向を変えだすともうさっぱりわけが解らなくなり、闇の林のなかで途方に暮れなければならない。見える範囲の樹々を記憶に照らしあわせて足の向きを決めて進む。見慣れたフォルムが浮び上がったときは嬉しい。すぐそこにあの場所の予感がする。
 二・のじゅく

 怖がりで、街者の僕がこんな雨の夜、山に入ってこれるのには少し訳がある。この場所には、以前作っておいた、薪置場があるのだ。
 邪魔になった木を二人掛かりで間引いたことがある。できた大振りの丸太の皮を向き、先をナイフで尖らして焚火の中に突っ込んで焼き、苦労して掘った柱穴に立てた。ほぞとロープを使って横木を高床に組んである。その上に薪を溜めておくのだ。
 これが完成してからは、来るたびに残った薪や、寝床に敷き詰める下草を積み上げて、ビニールの工事用シートで覆っておく。おかげで今夜のような雨のなかでも、濡れずに眠ることができるのだ。これがある安心感が、臆病ものを山に入らせたのである。
 ライトで照らしてみると、繁みのなかに頼もしい人工物が浮び上がった。
 息が整うまで休むことにして、煙草に火をつける。まずは、天幕を張ることにする。
 荷物や、寝袋を濡らさないようにすることは、快適な一夜をおくるのに最も重要だからである。それにいまは小降りの雨も、山のことで、いつ土砂降りに変わるかもしれない。早いこと濡れずにすむ場所を確保して、落ち着いて、好きな焚火に取りかかりたい。なにしろ真っ暗なので、気味が悪い。懐中電灯の電気の明かりは、本当に心細い色をしている。
 ガサガサと例の薪置場にかぶせてあるビニールシートを剥がしにかかった。一枚めくってみると、シートの間に何やら黒い大きな塊がへばりついている。濡れた枯葉だと思って手で払い除けようとすると、塊は一斉に跳ね飛んだ。思わず声をあげて、身をそらした。
 断片の一部は、乾いた音をたてて、僕の身体や顔に当ってくる。どうやら虫のようだ。
 おそるおそる光を当ててみると、黒い塊はカマドウマの集団だった。翅がないばっかりに『便所コオロギ』などと呼ばれて、ゴキブリ同様嫌われているやつだ。昔は、どこの家の台所にも居たけれど、最近街ではあまりお目にかからなくなってしまった。
 正体ははっきりしたけれど、やっぱり可愛くない虫の一種である。身体に止ったのを手早く払い落して、もう一度、塊のあったところを覗き込んでみると、はや一匹もいない。塊の大きさから察するに、百匹はいたに違いない。シートの間は、雨が凌げて、暖かかったのか。
 冬眠のつもりであったのなら、申し訳ないことをした。
 シートを剥がして見ると、あった、あった、布団が。といっても、前に積み込んでおいた葉付きの枝先や、ススキの束である。どれも、ぱさぱさに乾燥している。量も僕一人分にはたっぷりある。両手一杯に抱えて、寝床に運ぶ。何回も繰り返して積み上げてゆく。
 みるみるうちに、ご機嫌なベッドができあがる。さあ、急いで天幕を張らないと、この林の中で唯一の、濡れていない場所がなくなってしまう。ロープを木に結び付けて張り、支柱をたてる。大きな屋根がだんだんと寝床を覆ってゆく。
 ひと仕事を終えて、できあがったばかりの寝床に倒れ込んでみる。乾燥した枝葉の弾力が心地よい。こいつらは、カマドに火を起こすときにも心強い焚きつけになってくれることだろう。
 石を組みあげて、カマドを作る。そろそろ、腹も減ってきた。はたして、雨の中、僕独りで火が起こせるだろうか。ガスや、固形燃料などの火力は全く持ってこなかった。ライターの火が、小枝に燃え移らなければ、暖かい飯にありつけないのだ。ただ、ここにいるのは僕だけだから迷惑をかける人はいない。火が起こるまで何時間かかろうが、頑張ってみれば良いのだ。
 悪戦苦闘の末、頼りない炎が周りを照しだした。小さな枝が、いくつも燃え落ちてカマドの地面を覆いつつある。これがどんどん厚みを増してきて、床一面を真っ赤に染めだせばひと安心である。ほうり込む枝も、頼もしい太さになってくる。
 近くの小さな流れに、水を汲みにゆく。コッフェルと、香港で買ったアルミ製の水筒を一杯にしてくる。水を張ったナベを焚火にまたがせて湯の沸くのを待つ。焚火に気をやりながら、ジャガイモやタマネギの皮を剥き、ナイフを入れる。街では滅多にすることのない、無器用な男の料理の始まりだ。
 ナベの中に、何でもほうり込んでゆく。ししとうも、豚バラも、手で適当に千切って入れる。今日の楽しみは下で買ってきた塩鮭の切り身があることだ。いそいそとこれも突っ込む。焚木の位置を少し変えてやれば、すぐに、ぐつぐつと煮えたつ音が聞こえてくる。静かな雑木林に、ジャガイモが煮える音が響き、焚木のはぜる音が重なる。そして、旨そうな匂いが広がってゆく。
 ようやく、気持がゆったりとしてきた。シェラ・カップにあつあつの具をとって、かっ込んで食べる。スープがありがたく旨い。僕の下手くそで強引な味付けが、ここでは天下一品の食べ物になってしまう。腹一杯に詰め込んで、また寝床に倒れ込んでしまう。あらゆる音が聞こえなくなって、闇がゆっくりと僕の身体に浸み込んでくる。
 冷たい空気が顔を包んで、温度を奪おうとするけれど、胃袋につまっている暖かみを脅かすことはない。
 三・たきび

 じっと炎を見ている。焚火は時を忘れさせてくれる。
 無心に取り組んでいると、時がどんどん経ってゆくような気がする。けれど、火に没頭しているうちに夜が明けて、周りが白んできたことはまだない。
 雑木林の中の闇は時の経つのを、逆に遅くしてしまうようだ。ただ、陽のあるうちに夕飯の支度を終えようと急いでいるときには、とろりと暗くなってしまって、その素早さに驚かされる。このペースで夜が進むと、あっと言う間に朝になってしまうような気になる。早く焚火を楽しまないと、夜が明けてしまうような気になる。しかし闇に包まれたあとの林は突然、時の進むのを鈍くさせてしまうのだ。今日のような月のない夜には、特に。
 炎はぺろぺろと薪の小枝を撫でて踊る。僕はそれをじっと見ている。そのままどんどん時が進んで行き、朝が近づいて来るはずなのだけれど、火はそんなことに関係なく小枝を燃やしてゆく。忙しい。気持はのんびりしているのだが、薪はどんどん燃え落ちて次の小枝をせがんでくる。
 カマドの横に、奇麗にそして充分に積み上げておいたはずの立枯れ枝は、あっと言う間に半分になり、二三本になる。
 砂時計は三分とか五分とか、時を決めたうえで作られているけれど、薪の燃え方に時間をあてはめて考えようとしたことはなかった。
 一本の枝の燃える時間と、炎をぼおっと見ている僕の気持が少しずつズレてゆき、時の感覚を狂わせてしまうのか。それとも、闇の圧倒的な森厳にとり込まれてしまうのだろうか。
 焚火の前の横木に腰を降ろして、右手に炎を加減する棒を柔らかく掴んで炎に見入っている僕は、肩の力が抜けている。両足が地面に接している感じも自然である。顔を照らす炎の暖かみは、やさしくやわらかい。
 人間は昔、恐ろしい『火』の中に始めて優しさを覚えたとき、何かしらの『ちから』を感じたと思う。それは暖かみと安らぎだけではなく、勇気も与えてくれたのだ。限りなく大きな自然のなかで『火』に親しみを感じたとき、母に抱かれている幼い自分の姿をみてとったかもしれない。
 僕は炎を見ているのだけれど、炎も僕を見続け、護ってくれている。そして勇気を、安らぎを与えてくれる。
 一息、冷たい空気を胸一杯に吸い込んで、はきだす。これだけで都会の生活で汚れきった肺が浄化されてしまうようだ。炎から視線を周囲の闇に移しても、焚火は僕を見続けているのだ。炎は、森とともに僕を包みこんでゆく。
 「バサッ、」と音をたてて薪が燃え落ちる。僕は、二三本残った枝を注意深く火のなかに配置して腰を上げる。これから朝までの焚火に充分な薪を集めるのだ。懐中電灯を手にとり革手袋をはめて、闇のなかへ入ってゆく。
 不思議なことに、焚火を見つめた後の闇は、少しも怖くなくなってしまう。なにも見えないことが辺りを清楚にしてしまうのだろうか。林全体が自分の部屋のような気持になり、足元の朽ちた葉や枝は芝生と同じ清潔さを感じさせ、何処に寝転んでも、良い寝床に豹変するに違いないのだ。明るいときには、濡れそぼった土くれに虫が這い回っているのが見える、そんな地面に。不意に、顔に纏わりついてくる蜘蛛の巣も、壊してしまったことを申し訳なく思う存在に変化する。
 「バキ、バキ、」と立枯れの木を折り、闇のなかを焚火の横まで引いてくる。何本か集まったところで、都合の良い長さに揃えて切ってゆく。切りながら、時々、横目で炎を見る。炎も確かに僕を見ている。その炎と少しでも長くつきあっていたいから、薪を切る。一所懸命、切る。肩の力は抜けている。素晴らしい仕事ができる。
 細かな枝先も、丁寧に長さを揃えるようにして折る。無駄のない作業になる。地面に転がってたっぷり水を吸い込んだ腐れ枝も拾ってきて、焚火の周りに並べて立てかける。炎の反射で少しずつでも乾いてくれれば、心強い火力になる。急ぐ必要はない。夜は充分すぎるほど長い。そうしてもとの位置に再び腰を降ろす。爽やかな疲れがある。
 これから、この薪が全部燃えてしまうまで、炎とのやりとりを楽しめるのだ。この回はこまめに面倒をみてやろうと決めた。ほかの人が見たら、ちょっとじれったくなるようなそんな焚火の時間にするのだ。小さな炎が全ての小枝の周りをとりまくように、ちょこちょこと枝の位置を変え、燃え残りを置火に押し込み、立ち上がって向う側を見る。次に使う枝の長さを調節して左手に持つ。右脇には酒瓶を立てかけておく。酔っ払ってきたら、太い枝を四五本突っ込み寝床に横になって炎を見続けよう。ラジオカセットでカントリー・ソングを流して、ちゃんと聴こう。
 よほど頑張っても、この闇が白んでくることはないのだ。炎はそのうち、僕に、もう眠りなさいと語りかけてくる。僕は素直に焚火の言うことを聞いて、寝袋にもぐりこんでゆく。
(了)
山梨県北巨摩郡白州町の森
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