旅の写真とスケッチ・紀行
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プロレスものの命日

 ……
 ばたん、とドアを開けると煙草の煙がもうもうとしている。そのうえ冷たい雨の中を歩いてきたのでいきなり眼鏡が曇ってなんにも見えなくなった。
 「よう、珍しいじゃねぇか」くもり眼鏡の向こうからマスターの声がする。
 何が珍しい…だ。クソ忙しい時に会社にまで電話して呼び出したくせに。いつものことだが、この店は臭い。すこぶる汚い。一度撮影用のライトでも持ち込んで明るくして見てみたいもんだ。二度と来たくなくなるに違いない。実際、二度来る気のする店じゃないのだこの店は。少し足を遠ざけるとテメエがしつこく電話してくるのが鬱陶しいから、くるんじゃないか…。ボヤキながら座る。
 「今日は三千円で飲み放題だぞ」
 しまった! そういうことだったのか。マスターのよく使う手なのだ。ということは、なんか肩書きをつけているはずだ、何だ、今日の肩書きは?
 「プロレス大討論会だぞ、飲み放題だぞ」
 何を言ってやがる。あっ、あんな見難いところに汚い字で書いた紙が貼ってある。畜生来るんじゃなかった。それに、おれのほかに一人しか客がいないじゃないか。いったいどうして大討論会ができるんだ。
 「CAVEさんは何を飲む、とりあえずビールか?」
 「冷や。コップで」
 この男飲み放題の時は、ウイスキーや清酒を飲ませたがらない。できれば焼酎ですませたがっているはずなのだ。
 「菊正だぞ、辛口でいいだろう、ほい。」
  実はこの店、マスターの趣味が昂じたのだが、プロレス好きの若い客を集めてひと儲けとソウル・ミュージックのスナックから模様替えした店なのである。
 名勝負と言われる試合のビデオが数多くストックしてあり、一杯やりながら観たい試合をリクエストして観られると言うのがウリである。しかしアントニオ猪木の凋落とともにプロレス人気は下降の一途をたどり、マスターの持ち前のセコさと相まって、この頃は客がいる時のほうが珍しい。そこで売り上げを伸ばすために時々ゴリ押しのイベントを催すのだが、彼にとってはその内容など眼中にない。ようするに一人でも客が来ればよいのだ。ひとり来れば、そいつの友達に電話をして、彼をダシにしてもう一人呼び出す。そういうふうにして四人も集まれば、マスターのその日の暮らしは十二分に安泰なのである。セコい。
 「T君はいるかな…」
 ほらもう電話している。思ったとおりだ。この店ではおれとT君は「セット」になっているのだ。プロレスに全く興味を持たない彼が、たまたま来た時にはおれに電話がかかってくる。夜中の二時三時でもいっこうに構わず。まさにアユの友釣りだ。マスターの売り上げ倍増作戦なのだ。T君出るなよ。
 「…何だ、話し中だぞ」
 これがいちばんまずいパターンだ。部屋にいることを確認された上にまだ起きていることを知られてしまう。奴は、頻繁に電話するぞ。
 隣に座っている若いのは、以前この店で見たことのある顔だ。ま、こういう店だから、一見さんなんて客は滅多に来ない。マスターのボロボロのメモ帖に電話番号を書かれた者だけがこの店の客である。僕をこの店に連れてきた友人のKは、その辺りをよく心得ていて引越ししたのをよいことにそれ以来一度も来ない。多分電話帳にも載せていないのではないか。まあ、こっちもその客の名前など憶えていない。ここへ来ると、やけくそになって朝まで飲み続けてしまうことがほとんどだからだ。明くる日、名前の記憶なんて消えている。問題はその客が、今日の「討論」を楽しみにして来ているのかどうかなのだ。したくもないプロレス話を、つきあいでさせられるのはまっぴらだ。
 そうこうしているうちに、一杯目の酒がなくなってきた。マスターは案の定T君に電話をかけ続け「長い電話だな、一体何してんだ…」と舌打ちをしている。ここは作戦の立て時だ。飲み放題を認めてどんどん飲みまくるのか、それとも今日のイベントを知らずに来たことを盾にあくまで正規のワンショット料金を主張するかだ。このマスター、客さえ数人入れば当面の目的は達成されるのだからそれ以上細かいことにはこだわらない。おれ自身の問題なのだ。ここで一杯分の金だけ払ってシュッと店を出るのがいちばんよいのだが、こっちも飲み足りなくて来たわけだからもう二三杯は飲みたい。その範囲ならば、ショットの方がトクだが。そうこうしているうちに、電話攻勢に負けたT君が重い足取りでやってきたりしてしまうと、長くなって飲み放題の方がトクになる。この辺り、マスターの巧妙さを認めないわけにはいかない。まあいいかほっておこう、とにかく飲み足りないのだおれは。
 「マスター、冷やもう一杯おくれんか」
 「おう、燗しなくていいのか、冷やは体に毒だぞ」
 マスターのアドバイスはもっともである。おれは最近冷やばかり飲んでいるので腹の調子が良くない。燗にしても良いのだがこの店ではちょっと遠慮しておく。ド汚いヤカンで直接火にかけられた酒はあまり有難くない。気の利いたつまみでもあれば燗にしないでもないが、ここでつまみを注文する客をおれはまだ見たことがない。ウィンナー炒めとか焼きソバとかがメニューに書いてあることは書いてある。ただ頼む客がいない以上そのネタはいつの物か分からないし、彼が駅近くのコンビニで仕入れてきたばかりであったとしても、一度カウンターの内側やフライパンの状況を見てしまった者にはそれを調理してもらう勇気は出ない。ここの客は腹が減ってくると、近所のラーメン屋へ行くか、モス・バーガーへ言ってテイクアウトで持ち帰ってくる。まあマスターもそういう行為に関しては全く嫌な顔をしない。すれば数少ない客をますます減らすことになるのをよく知っているのだ。
 さて、おかわりの冷やが来たところで、隣の若いのが大丈夫なやつかどうかチェックすることにしようか。いやいやほっといたほうが良い。いずれ分かるのだから。最近の若いプロレス・ファンはたちの悪いやつが多いのだ。『UWF』にしゃかりきになっているやつが特に。本気でやればやるほどクローズアップされてくるのは『受け身』のテクニックなのだ。そして『受け身』を語るときにハリー・レイスや天龍の凄みに触れないわけにいかんのだ。それを語らずしてシューティングは語れない。オーソドックスなプロレスを下敷きにしてこそ新しい格闘技のポイントが見えてくるのだ。そいつらに比べれば『虎キチ』と呼ばれ鼻抓みあつかいされている阪神タイガースの気違いファンのほうがよっぽどましだ。あいつらは歴史を知っているし、絶え続けているからだ。突然目の前にノリのいいのがぶら下がってきたからって必死になって感動するなよ。もっと広くて透明な心を持ちんしゃい。とおれは言いたいのだ。
 「さあ、前田でも見るか」マスターがビデオテープをセットしだした。
 何をだすつもりだいったい。ほほう『前田日明−ドン中矢ニールセン』か。これは、もう見飽きるほど見た。おれは『グレート草津』の試合が見たいのにここにはないらしい。マスターが前田の試合を持ってくるあたり、隣の若いのは『U信者』の可能性が高い。
 「もう、それはいいよ。」若い客が言った。
 「猪木の試合にしてよ」
 「なんだ、それなら早く言えよ、今日は猪木の日なんだぞ」
 なんだなんだなんだ、今日は『猪木の日』なのか、そういえばつい先日アントニオ猪木は長州力との特別試合のシングル・マッチでラリアート六連発を喰ってマットに沈んだ。完全なピン・フォール負けだ。まさしく『猪木信者』たちにとっての命日だったのだ。ようやく永過ぎた『猪木時代』の終焉を誰もが認めざるを得ない時が来た。じゃあ今夜は猪木の法事の日か。今日という日、いちおう日本では『大喪の礼』の日であるのだが。
 マスターは店の奥にある手製のポスターを指さしている。そこには『当店制定の88ベスト・バウトは猪木VS藤波』とある。毎年この店のベスト・バウトを制定して、某プロレス週刊誌に載せてもらっているのだ。これはマスターのしけたパブリシティ戦略のひとつである。
 そういえばマスターも心なしか元気がない。そりゃそうだ、彼も『猪木信者』なのだ。
 モニターの画面には、栄えあるベスト・バウトの座を勝ち取った『猪木−藤波』戦が映しだされた。まあおれにとっては、これも今更見たい試合ではないのだが、特別の日とあれば仕方がない。「マスター、冷やもう一杯」
 「焼酎じゃ駄目か?」
 ほら来た、この商売人め。安いものばかり飲ませたがるなよ。「冷や!」
 隣の客は、ああとかおうとか呟きながら画面の試合を見ている。意外におとなしいやつだ、これはありがたい。
 ボスッ!とボロボロのドアが開いた音がしたかと思うといきなり
 「お〜う待ったかスマンスマン腹減ったからラーメン喰ってきたんだ。お、横浜の試合か、マスター、ビール!」
 隣の客の友達のようだ。マスターの商売はどうやら目論見どおり順調らしい。でかい図体をした丸坊主のジャンパー野郎だ。こいつはかなりうるさそうだ。うるさくてもいい。討論が好きでないことのみ祈る。
 これで客は三人。この店では大入りのほうだ。マスターがにこにこしながら受話器を取りあげた。
 「なんだ、やっと出たか……CAVEさんが来てるぞ!こいよ、え」
 勢いにのってT君呼出しに掛かってやがる。さすがにプロレス好き、かさに掛かって責めるツボをよく知っている。T君来るなよ。
 結構T君は抵抗しているようだ。しかしマスターの波状攻撃も粘っこい。まあほうっておくとしょう。
 「ダメだ、来ないっていってるぞ、しょうがねぇな…」
 T君よく粘った。時間切れ引き分けでタイトル移動なしだ。これで貧乏な君の三千円はもっと有意義なことに使えるぞ、めでたしめでたしだ。
 ほっとしたのもつかの間、隣の坊主頭がおれにカランできた。マスターの野郎がおれのことを『G・馬場』の信者だとでっちあげたからだ。あの野郎、おれがプロレス全般について詳しいのをよいことに、強引に『討論』に持ち込もうとしてやがる。
 坊主頭は、しきりに「全日はカス」だの、「馬場がガン」だのと突っ込んでくる。こっちも、おれなりの『プロレス感』を持っているのだおまえらのような若造のせいでプロレスの人気が落ち込んできたんだ馬鹿野郎と、酔いの追い撃ちで語気が荒くなる。
 こうなってしまうとおれも簡単に引き下がる訳にはいかない。
 ええ機会や。おまえらにプロレスとは何かを教え込んだる。若造が。どや、おまえら『猪木−小林』戦観たんか、え何、ここで観た。あほ。雑誌やビデオでみてえらそうなことをゆうな。こっちはな、ず〜っとな力道山の頃から観とるんじゃ。ものごとには流れとゆうもんがあんねんぞこら。なに、馬場が八百長やて。そらそや猪木も前田も八百長や。おまえらだいたいな興行ちゅうもんはどういうもんか知っとるんかど阿呆が。ものには見方がいろいろあるねん。え、あーそら残念やったな。猪木、終ったな前田に乗り換えかそうしそうし、そうしてないつまでもおもろないおもろないゆうとけ。ぼけ!
 「テメーおっさんにそこまで言われる筋合いはネェヤ!」
 「阿呆んだら、もうちょっとかしこならんかい!」
 そのとき、
 「大喪の礼のバカヤロー」
と大声で叫びながら、ぐでぐでに酔っ払ったT君がドアを蹴って乱入してきたのである。
 「なんだ、やっぱり来たじゃねえか」
 うれしそうな顔をかくしもせずにマスターが言った。

(了)……合掌
東京・下北沢(スズナリ横丁)
words11989(昭和64年)

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