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文庫本読書倶楽部
99
発掘捏造

発掘捏造 99 発掘捏造

毎日新聞旧石器遺跡取材班 著
新潮文庫
ノンフィクション

投稿人:コダーマン ☆☆☆ 03.06.20
コメント:新聞報道の裏側と、学者ののんびり加減がよくわかる。


 例の、旧石器時代の発掘で大々的に捏造があった件を、その取材者たちがまとめて報告した本。
 2年前にハードカバーで出たときに、買えなかった。文庫本になるのを待っていたが、毎日新聞社の本が新潮文庫で出た。毎日新聞社は文庫を持っていないからこうなったか。このところ、多くの本を文庫になるまで待ってから買っている。時代小説などはほとんどそうして読んでいる。内外の本を問わずハードカバーの新刊を買うことがなくなってしまった。

 さて話は、東北旧石器文化研究所副理事長、「ゴッド・ハンド」と呼ばれた藤村新一による発掘捏造を毎日新聞の記者グループが突き止め、写真とビデオで撮影し、藤村本人にそれを見せて、本人に捏造の事実を確認するという内容。
 新聞社の報道らしく、疑惑の人物を徹底的に追いかけて証拠を掴み、事実を丹念に記録して、捏造が客観的にも確認できるように揃えるものを揃える。この事実の積み重ねがまどろっこしいが、これがノンフィクション手法であるし、新聞の手法というものだろう。あとで、証拠として使えるしっかりしたものでなければいけない、という確固とした意識を持って仕事をしている。

 藤村が発掘現場に現れると、とにかく旧石器時代の石器が出てきてしまう。そういうことがずっと続いた。
 例えば、この場所を20日間発掘調査すると決まる。最後の5日間だけ藤村が参加すると発表される。15日目まで何も出ない。16日目に藤村が参加して二日目ぐらいに、藤村がその発掘場所の端の方の一画に、旧石器時代のものと思われる石がまとまって埋まっているのを見つける。そういう大発見が繰り返し繰り返し記録されている。長年発掘に参加してきた専門家も多くは、藤村の飛び抜けた「目と勘」を信じている。
 発掘地の地形を繰り返し眺め、「そこに暮らしていた旧石器人」はどういう風に日常生活を送ったかに思いを馳せることに、藤村は長けているのだと、周囲の人は信じている。だから、ある場所にしゃがんだ藤村が「出ました」というとその言葉を信じ、出た場所の周囲の土を科学的・化学的に検証することもきわめて少ないようだった。下の層ほど時代が古い、という基本を無条件に信じて、科学的な検査をしない。数十万年前、前期旧石器時代の「時代確定」は確認手段が限られているとはいうけれど、その石に付いている土も、傷も、徹底的に調べるようなことをしないし、藤村が出たという時には石が外に出てしまっている。
 半ば埋まったままで、周辺の状況を厳しく観察したり土を調べたりもしない。考古学の発掘検証なんて、こんなレベルなのかと、私は捏造のニュースが流れたときに思ったが、この本を読んでそれを確認することになった。

 藤村の発掘を疑いも持たず信じていた人ばかりではない。藤村の名前が知られるようになった初期から、出てきたものをしっかり検証して欲しいという人や、どうして藤村だけが「非常に効率よく、回数も多く」発見できるのかを疑ったり、旧石器時代のものとするには確証が乏しいと主張している人が大勢いたのである。
 統計学的にはあり得ない率で藤村が発見を重ねているともいう。
 しかし学問の世界特有の、大きな流れに入っていないものは、いうことを聞いてもらえないという閉鎖性に抗することはできない。あるいは、主流派に反旗を翻そうものながら旧石器研究の世界にいられなくなるという、よくある学問の世界の偏狭さにどうにもならず、「変だという声」は押し込められ続けてきたのであった。それと、大発見だけを扱うマスコミの流れの中で、疑わしいと書くこともできない雰囲気もあった感じがする。その点は、マスコミ側の反省の要ありだと思う。

 噂を総合したり、冷静な検討の結果、やはりあの人は疑わしいということになる。ただ、色々耳に入ってくるつぶやきはあるが、新聞記者としては新聞報道に足る「事実」を見つけなければどうにもならない。
 そこで、もし、藤村が自分で埋めて自分で発掘して見せているとしたら、いつ頃「発掘するもの」を埋めにくるのか。現場写真を撮ろう。最初に藤村の怪しさに気づいた記者たちが組を作っていよいよ疑惑の確認作業に入る。
 夜中に宿から出てきて、発掘場所のどこかに埋めるとしたら、手元に明かりが必要でその明かりが見つかりやすいから、それはないのではないか。朝、発掘場所に地元の人が出てくる前にやってくるのではないか。深夜か、それとも早朝か。
 取材班はその確認からスタート。深夜で何度か失敗する。発掘場所や季節によって、待機してカメラを構えているのが非常に大変なことが多いと書く。
 もし、見つかって、二度と捏造をしないようになれば、これまでの捏造も解明されないまま奇妙な発掘記録が残ったままになる。
 繰り返し撮影に挑戦して状況を観察しているうちに、夜はなく、朝来るのだという結論になる。難しいのは、藤村に気づかれずに「埋めている」場面をしっかり撮影しなければいけないということ。発掘現場に適当な隠れ場がなかったり、暗い中で動きを的確に捉えることのできるカメラがまだなかったり。いい場所だと思ってカメラを構え、別の記者が発掘現場で動き回ってみると、上半身しか映らなかったりという様々な問題を徐々に解決していく。
 そして、何番目かの発掘場所でついに、藤村が早朝にやってきてしゃがんで穴を掘り、ビニール袋に入れて持ってきた石をそこに入れる場面を正面から撮影することに成功する。気づかれることもなく大成功。
 すぐに「何をしているんですか?」と聞くのではなく、動かぬ証拠を握って、新聞の原稿を用意しておきつつ、新聞に掲載する前に本人に「捏造」を質す新聞社。本人の、私がやったという言葉を聞いてから掲載に踏み切った。
 その内容が淡々と、少し自慢げに記録されている。
 それで終わりではなく、その「捏造の事実」が考古学の世界に広がって行くに連れて起こる「動揺・反省・悔恨」、ついでに言えば、だから言ったでしょうがという、懐疑派への注目が高まるという状況もしっかり書かれている。
 藤村に心を寄せていた人たちは「捏造は、全部の遺跡ではないんでしょ?」と、ほとんど祈るような感じで捏造報道に対して聞き返すが、捏造するような人物が発見したという事実から、それまでとは逆に、期待ではなく疑惑を持って藤村の発掘をみることになる。結局は藤村がかかわった発掘のすべてが黒か、黒に近い灰色ということで、正しく発掘されたものとは認めてもらえないことになっていく。

 石が顔を出した時点でまず科学的な観察をする習慣がないということが驚きだった。私が、読者として書く「科学的」というのは、土壌の化学的性質を調べる専門家、出てきた石を顕微鏡的に観察してその表面の傷や付着しているものを明らかにする専門家、土に含まれる花粉などを分析する専門家などなどが発掘に同道していて、現場でかなり傍証することができるということになっているべきだということである。
 土を掘って、前の晩に埋めたりすれば、その掘り返した土が周囲と違って層の順が不自然になっているので、他の人がそこを堀始めれば、土の層が変になっているとわかるらしい。しかし藤村は、掘り返して、石を露出させてから知らせるので、土を検証することができないようになってしまっているのが常だったらしい。これは、はっきりやる気でやっているという証拠でもある。

 要するに、新発見を期待されることで、発見して見せないといけない気持にもなったのだろう、ゴッド・ハンドはゴッド・ハンドでなければいけない気になってしまったらしい。捏造を自分で止めることができなかったのである。
 考古学学界も大揺れ。旧石器を研究する人々だけではなく、考古学に携わるすべての人々が客観的な化学的検証も必要だろうし、発掘したものを、他の学者にも研究させるということをしていかなければ駄目だろう。という意見は出ている。しかし、できるんだろうか。できないだろう。という気がする。
 日本人のというより、日本の考古学研究者の気持ちの中に、非常に古くからこの大地に「原日本人」が住み着いて、長い歴史を刻み、文明を生みだしてきたのだということを示したくてしょうがないという思いが潜んでいるような気がする。中国や朝鮮半島の歴史に負けたくない、という奇妙な精神があると感じられる。
 この、大陸文化の古さへの対抗心があったり、古い歴史があるほど誇れると思っていたりするようであれば、どこかでまた古い時代をねじ曲げるような学者が出て来るような気がする。
 そんなことまで思わせる、実の詰まった本だった。


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