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文庫本読書倶楽部
12
朱の丸御用船

朱の丸御用船 12 朱の丸御用船

吉村 昭 著
文春文庫
歴史小説

投稿人:cave ― 00.07.27
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 私にとって、著者は不思議な作家である。「戦艦武蔵」「高熱隧道」あたりから読み始め「深海の使者」「破獄」「漂流」「羆嵐」等、文庫化されたものはほとんど読んで来たのだが、読書に倦んだとき、つまり誰の作品もあまり読む気がしない、しかし本は読みたいというときに、迷わず未読の吉村作品に助けを求めることにしている。そうして吉村作品を読み終えれば、別の作家や他ジャンルの作品に取り掛かれるようになるのだ。

 この話をある友人にしてみたところ、興味深いことばが帰ってきた。「鬱状態」のとき、何もできなくなり、読書などとんでもない、と言う状態になるそうだが、なぜか吉村昭は、読める。というのである。躁鬱症の鬱状態というのは聞くところによると相当苦しいもののようだが、そんなときでも読めてしまえる作品。私がどの本にも読む魅力を感じなくなっているときに読めてしまえる作家。この人の小説には、ひとつの「癒し」の効果が潜んでいるのではないか。もちろん著者本人はここに挙げているような効果を意識して執筆してはいないだろうが。この作家の小説に対する姿勢、「史実」をしっかりと調査し、それを曲げることなく「小説」としてのエッセンスを加味して築き上げている世界が、結果として目には見えない不思議な効果を発散しているように思える。

 そんな効果はともあれ、私がこの作家にほかならぬ愛着を感じるのは、取り上げられている「史実」の選択が、私の趣味的好奇心に一致しているからなのだ。戦艦の謎の爆発、黒部十字峡の泡雪崩現象、Uボートと伊号潜の密会、漂流した無人島でのサバイバル、ライト兄弟より先に飛行原理を追求した日本人、大震災の描写、人食いグマの恐怖、丹那トンネルの難工事、世界初の胃カメラの開発、常識では考えられないような脱獄、等。それに加えて、このサイトのテーマにも合致する頑固で生真面目なのに軽妙なエッセイ…。歴史の教科書に一行で書かれているような事象が、おおきな広がりとともに事実として正しい知識として読め、なお面白いなんて、作者の苦労もしらずに言えばドンドン書いて欲しい、題材をリクエストしたい思いで一杯だ。

 さて、この「朱の丸御用船」は、お堅く言ってしまえば、江戸末期のオフィシャル年貢米輸送船をめぐる密売と横領の調査報告書のようなものだ。危険な廻船の仕事に見切りをつけるにあたって、米の密売と偽装難破で最後の一儲けを決意した水主と、ご法度の難船からの略奪を隠蔽しようとする漁村、それを調査する役人の三様の行動が吉村調で淡々と進んでゆく。しかしその背景となる当時の風習や廻船のしくみ、気象、行政などが細かく描写され、読者はその時代や人間の営みのようすをたやすくイメージし認識できる。これこそ「歴史」や「社会」を本当の意味で「身に付ける」ことになるのだと思う。

 同じような題材の作品に「破船」がある。こちらのほうは貧しい漁村が生き残ってゆくために、あえてご法度を生業とする道を選び、またその報いとも言える疫病に冒され破滅するという、史実とは言え、それ自体が伝奇的要素を含んでいるエピソードのため「小説」としての面白みは大きいと感じた。

 今回は、「朱の丸御用船」の作品よりも作家に対する印象を中心に書いてしまったが、読みたいものが無くて困ったときには、また読書の気力が生じないときには「吉村昭」という、私の処方箋を、アタマの片隅にでも置いておいていただければ、いつか役に立つときがあるかもしれない。


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