落語の芸
2002年05月21日(火)
 柳家小さんさんが亡くなって、テレビで追悼番組をやったり、ラジオで録音を流したりしていたけれど、必ずしも小さんさんのできがいい高座ではない感じがした。(以下、小さん)
 私は、落語の芸がわかる! と自信を持って大声では言わないが、40年も落語を聞き、見てきた落語好きとして「小さんの、蕎麦をすするところは絶品でした」などという落語の取り上げ方は大間違いですよ。落語はそういう芸じゃない。
 今の、テレビ、ラジオの「演芸」を担当している連中は落語を知らないんだと思う。
 追悼番組で、落語を一席まるまる放送する場合は全体の「芸」がつかめるかもしれないが、ほんの数十秒姿を見せるだけなので、印象的な「蕎麦を食べるところ」を見せようというのはわかるが、小さんの芸はそういうところにあったのではない。
 何本も録画があって、その中からこれができのいい時と選ぶ時間も、目もなかった。

 だいたい私は、昨今、落語の中でうどんを食うだの、蕎麦をたぐるだの、饅頭をほおばったりしたときに拍手をする客が腹立たしい。そんなのはできて当たり前なんだ。そういう客が、落語家を駄目にする。毎回雑談しかしないような落語家が出てきたてまた雑談を始めたら、手洗いに行っていいんだし、冷たい物でも飲みに出ていってしまっていいんだ。
 まぁ、そういう拍手を求めるように間を空ける落語家もいないではない、といったことになってきたが、落語をどこか切り取ってここが芸ですというのは大間違いですよ。
 うどんと蕎麦を食べ分けたのなんのというのは、芸の部品ではあるかもしれないが、そんなことは全体としての芸にはあまり関係がない。「時そば」の全体がすごく下手で、蕎麦をすするところだけが上手といったのは、落語としてはやはり下手なんだよ。誰それは羊羹を食べる真似がうまい、といったことになると落語の芸とどんどん離れてしまう。
 そんな部分をすっ飛ばしても、面白い芸、面白い落語家は存在する。
 
 落語は生ものだから、例えば池袋演芸場で五月の下席のトリをとった時、あの「粗忽の使者」が良かった、というようなことであって、小さんの粗忽の使者はいつでも全部いいというわけにもいかない。だから、「当たることを期待しながら」演芸場へ行き、ホールへ足を運ぶ。
 落語ってそんなもんです。
 そういうことで言うと、上々のできでなくても志ん朝さんは「まずたいていは、良かった師、また聞きたい人」のだし、談志は「ひどい日はすごくひどいけれど、良いときは心底名人だと思う」のであり、枝雀は「ほとんどいつもおかしい分、おかし味が少しでも少ないと、グッと落ちて見えることがあった」のだし、米朝さんは「ほとんどいつもみごとで、ゆったり芸を見せてくれる」のだ。
 好きな人の高座は、だいたい面白くおかしいのが普通で、だからといってそれが上出来とは限らない。贔屓にとっては、高座で話をしてくれていればもうそれでいいのだが、その日「芸」を見せてくれたと思うことは少ない。私が一時夢中になった古今亭圓菊師匠も、最近は言葉がやや不明瞭のことが多く、歯切れが悪いけれど、私自身にすれば高座で動いていてくれるだけでも十分ではある。しかし、芸をみたと感ずることは少なくなった。それでも、脂ののりきった頃を知っている、また、年に何回か猛烈に素晴らしい高座にあえることがあるのが、楽しい。
 そうして言う「芸」は、やはり落語一席全体でいうことで、今日も蕎麦をすするところは名人でしたなんてのは変だ。

 最初に書いたように、必ずしもいいできではない高座が録画されて、追悼番組で流される。これ、芸人には失礼だと思う。永年小さんの高座を見てきた人に、どれがいいでしょう、と聞いて選んで欲しかったね。追悼番組というのは、そういう時間もないのかもしれないが、少し悔しい。私が悔しがることもないけれどね。

 余談ですが。
 小さんは、いわゆる真っ当な落語家で、優れたお手本の落語をてらいなく語る人だったと思う。その「真っ当さ」の点ではやはり、抜きん出ていた。真面目に落語と取り組んでくれた人だったんだ。破天荒な人生を送って、その人しか持ち得ない型を持ち一世一芸というものではなく、どう演ずるのが正しいんだろうと「教科書」を調べると、そこに小さんの芸が参考に載っているといった芸だったのではないか。だから、伝統を壊すとか、乗り越えるとかいう芸を期待する向きには、小さんの芸は真っ直ぐすぎたかもしれない。
 余談の続き。
 昭和時代に、なんとか間にあって聞くことので来た名人上手の弟子や一門の人で、その名跡を継いだ人たちが何人もいるが、先代のレベルの芸に達している人はいない。名前に全然見合っていない。商売上名前を継がせることになったというだけで、聞きにいく気が起きない。正確な感想は、それである。
 昭和の、それも戦後生まれが何を言うか! かもしれないが、下手なんだから金を払って見に行く気がしない。名跡を継いで、なお下手なままで、この先化ける期待もなし、精進して芸に打ち込んでいる様子もない、とすりゃ、若手に期待して当然でしょう。名人上手を見て、こうはなれないとあきらめた層が落語の世界に存在する気がする。




(C)コダーマン 無断転載はお断り。仕事のご注文、承ります。
 引用、転載、出版については、メールでご連絡ください。

TOPへ