東西南僕 21 古牧温泉渋沢公園
2004年07月30日(金)
 青森県三沢市、古牧(こまき)温泉渋沢公園

 「古牧温泉渋沢公園」、これがひとくくり。古牧「温泉」であって、渋沢「公園」である。
 はて? と思った。じっと考えれば、温泉のある公園とは見当がつくのだが。

 ガイドブックを書く仕事を引き受けて、まずは青森県に取材に行くことになった。目的はこの古牧温泉渋沢公園で、「ここへ行けば青森の半分は掴める」といわれた。
 んん、この説明ではよくわからない。
 2004年の1月、盛岡の先、八戸まで新幹線「はやて」で行くのは初めてだった。いよいよ青森県までひと走りである。私の場合、北に向かう新幹線には大宮から乗ることになる。すると、仙台・盛岡と止まって、あとは八戸までの各駅停車。秋田に行く場合も同じで、盛岡から秋田まで各駅停車。それで、4時間を切るのだ。
 それにしても、取材は緊張する。

 古牧温泉渋沢公園は、敷地も宿泊施設もあまりに大きく、また文化的に歴史的に非常に深くて、単に順を追って、こんな風に案内してもらいました、と書いてもとりとめがない。まぁ、私の文章自体がとりとめないので有名なのだが。
 ということで、私風の「前提になる」説明から始める。

 三沢駅は、昭和36年までは「古間木(ふるまぎ)」駅として知られていた。
 実は、昭和20年以前、私の父がここにあった連隊に軍人として滞在していた。その話を、ポチポチ聞かされていたので、古間木という地名が頭に残っていた。三沢市に聞いてみると、「古間木」は正式な地名としては、大字犬落瀬(いぬおとせ)字古間木、あるいは字古間木山として現在もあるという。JR三沢駅(旧古間木駅)周辺の地域一帯の通称として古間木というそうだ。
 そして、取材に行くことになった場所が、古牧温泉。この古牧は、あくまでも古牧温泉渋沢公園の名称であり、地元では略称「古牧」と使っていると教えてくれた。

 この両方に共通している「まき」という音に関して。元々、三沢市周辺の土地は、藩政時代南部藩の牧場があったところで、「まき」という音は、その牧場、あるいは牧場を囲む柵をいうはずだから、古い方の古間木も「まき」に「間木」という字をあてた地名だろう。そんな風に、素人としては思いを巡らした。
 長年旅をしていれば、これぐらいは考える、正しいかどうかは知らないが。
 八戸、五戸などの「戸/へ」は、牧場の柵に作られた出入り口だという説もある。

 次は、渋沢公園の「渋沢」について。
 これは、渋沢敬三氏の「渋沢」なのだ。
 この渋沢敬三さん(失礼かも知れないが、非常に敬愛しつつこの呼び方で行く)、戦時中は日銀総裁を務め、戦後、大蔵大臣として活躍した経済界の大人物である。
 私たちは、その渋沢さんの祖父、渋沢栄一という名前を歴史の授業でまず教えられる。日本初の第一国立銀行を創立し、日本に資本主義を築いた実業界の巨人だ。明治以降、日本の経済発展に大きな力を発揮し、偉大な足跡を残した人物として教科書のページで出合っている。
 パリの万博に、将軍徳川慶喜の名代として行っているというのがすごいね。他の誰でもない、将軍の名代ですよ。
 こうした、経済人としての渋沢一族は、私の関心を引かなかった。

 しかし、経済人として大きな存在でありつつ、民俗学に情熱を注いだ学者でもある渋沢敬三さんには果てしない敬愛を抱いてきたのだ。自費で民俗学研究所、後に日本常民文化研究所に発展した施設を設立した人物である。

 私のような奴が「民俗学」という言葉をもてあそぶと、本当の民俗学者が怒るだろうが、日本中を旅するようになって、この国に深く興味を持つようになり、民俗学をしっかり勉強しておけばよかったと思うようになった。旅を、より意味のあるものにできただろうと思うと惜しい。また、民俗学的視点を持っていたら見逃さないだろうものを多く見逃していると思うと悔しくもある。そういうこともあって、夢中になって読んだ本が、宮本常一の本。日本国内で、この人の歩かないところはないといった感じの宮本常一の、師匠であり、時にスポンサーでもあり、最大の応援をしてくれた人物が、渋沢さんなのだ。
 お金に余裕があるから、儲からない民俗学者たちを応援したのではないか、と若い私は思ったこともあったが、そうではなく、渋沢さん自身が民俗学に深く傾倒していて、あとは想像だが、経済人としての仕事からそうそう離れることができないので、若い学者たちにヒントを与え、フィールドワークする人々を援助したりしたのではないか。
 そんな風に思うようになった。日本の民俗学は渋沢さんのおかげを被っているところが大きいのだと思う。
 私に民俗学的な「香りと味わい」を楽しませてくれた仲間で、現在ちゃんと民俗学者になった男がいるのだが、彼は宮本常一先生と呼んでいたし、一緒に旅をしたこともあったという。

 ということで、私は直接宮本常一から教えを受けることはなかったが、この人のフィールドワークに深く関心を持って多くの本を読んで、心の中では宮本「先生」と思ってきた。その人の先生というか師匠が渋沢さんなのだ。

 これで、古牧はわかって、そこに温泉があって、古牧温泉。で、渋沢公園の「渋沢」まできました。

 さて、古牧温泉渋沢公園の社長は、杉本正行さんという方です。
 社長室にデーンと座っているような方ではないらしく、私がお会いした冬の朝は、新しい施設の工事を陣頭指揮していて、長靴を履いた勇ましい様子ですごいエネルギーを放射しながら動き回っていました。
 その現社長のお父さんの杉本さんが、渋沢敬三大蔵大臣時代の秘書だったそうだ。16年間を秘書として過ごしたと記録にある。そして、渋沢さんから、青森にある渋沢農場の立木を製材して進駐軍に渡す仕事を任されて、杉本氏が青森に赴いた。
 その時に、渋沢さんから「東北は民具の宝庫だからできるだけ集めるように」とも言われたという。こうして、経済活動と文化的な仕事を並行させていく活力はすごい。そして林業に携わりつつ、杉本さんはしっかり、農具や漁具、生活用具、信仰にまつわるあれこれ、習俗に関したものなど多岐にわたる民具を収集した。そのうちの18,000点が展示されるのが小川原湖(おがらこ)民俗博物館である。これが、現在の古牧温泉の敷地内にある。最初の活動の拠点だった製材所があったところに博物館が建っているのである。

 ね、読んでいる方もくたびれてくるでしょうが、書いている方もヘトヘトになるほど厖大なものを抱えた施設なんですよ。
 少しかいつまんで先を急ぐ。

 温泉があって、木を伐りだした広大な土地と、その一部に建つ博物館がある。
 この博物館を見るだけでもたっぷり時間がかかる場所に、宿泊施設があったらいいだろう、と思ったんでしょうね。そこでホテルを造る。また、明治10年東京深川に渋沢栄一が建てた和風二階建の立派な家屋を移築する、といったこともして、周囲を整えていく。
 その渋沢栄一が住んでいた建物は、清水建設の創始者・名工清水喜助の手になるもので、杉本社長が渋沢敬三の秘書として16年間を過ごしたところだった。国有財産だったのを払い下げてもらい、移築したのである。宿泊客は見学できる。
 戦後を迎えた日本が、世界と伍して行くために様々な人物を迎えた「館」としての洋館部分と、渋沢家の人々が住まった日本家屋の部分が、不思議にマッチし、日本建築として洋館として伝統的な建て方をしたまま繋がっているので、見学する方としては「一粒で二度おいしい」のである。建築技術と使われている建築資材がすべて「本物」、少し解説をしてもらいながら見ないと、とうていその良さと意味合いがわからない。これは、絶対に見ておいた方がいい建物です。
 あの「ちゃんとした家というものは、こういうものだ」と学んでおくだけでも価値がある。

 こんな風に、博物館がある、移築した歴史的価値を持つ家屋がある。温泉があって、「グランドホテル」が4つある。そのホテルの一つひとつに呼び物の風呂があったり、くつろげる施設が用意されていたりするのだ。
 さらに、ここには「あの岡本太郎」の記念公園というのもある。

 昭和36年、中央公論に「東北文化論」執筆中の岡本太郎が取材でこの地を訪れ、古牧温泉の杉本行雄社長(現社長のお父さん)と意気投合した。それ以降、岡本太郎は亡くなるまで、毎年夏をこの温泉公園で過ごしたそうだ。
 何か作品を創ってくれ、というようなことをいう必要もなく、岡本太郎は内から湧いてくる情熱に任せてどんどん作品を残したようだ。ホテルの中の暖炉の「煙突」が岡本作品だったり、いまお客が滞在中に目にするデザインのあれこれに岡本の手が関わっていることがわかる。
 そして、自然の中においたままの方がのびのびして見えるいくつもの作品が、敷地内の丘に点々とレイアウトされていて、そこが岡本太郎記念公園だ。
 私自身それほど岡本作品が好きなわけではないが、ちょうど訪れたときに、積もっている雪に見え隠れする岡本作品には感激した。ああ、この人の作品は小さな空間に収めておくのではなくこういう風に自然の中におくと無類の力を発揮するなぁ、と思ったものだ。雨に打たれ、風に吹かれ、上に雪が積もる、たぶんそれを岡本太郎が望んだに違いない。
 いいんだ、それが。
 作品の周りにイスが配置され、しばらく休んで眺めるのにいいな、と思うとそのイスは岡本太郎得意の「座ることを拒否するイス」で、おかしい。情熱とユーモアの人だったのだ。もし、長い間の風雨によって作品が風化しても、岡本ならそれを良しとするのだろう。いずれにしても、この地にいて「ここにこんな物を創りたい!」と爆発して、そこに残していったものなのだろうから、力がこもっている気がする。
 暖炉の上の煙突が作品、と書いたが、ある日突然巨大なものが届いて「これを、あそこの暖炉の煙突に使ったらいいと思って」というように作品が送られてきたものだそうだ。二階分吹き抜けの煙突。それを支えるために実は「大きな工事」が必要で据え付けるのに大変だったこともあるそうだが、爆発の人はそんなことなど気にせず作品を送ってきたのだろう。
 だからこそ自由奔放で、なかなかいいのである。

 ということで、敷地内をしっかり見て回るだけでも、朝から晩までかかってしまうほど「実が詰まっている」のだ。どうしたって、泊まるところが欲しい、となる。
 そんな感じで、グランドホテルが次々にできたのだと思う。古牧第一グランドホテルから古牧第四グランドホテルまで、一度では覚えきれない大きさでデンと構えている。

 私を案内してくれたのは、沼田さんという方で、秘書室長である。秘書室があって、室長がいるのだから部下もいるということだろう。秘書室に優れた人を何人も揃えておく必要があるほど大規模で、複雑な施設。単に、温泉場というものではないのが私にもわかった。

 沼田さんは、上に書いた施設全体の歴史を明快に語るだけではなく、民俗博物館ではそこに保存展示されている民具の説明もできてしまう人である。東北の民具、農具、漁具となると、八郎潟という汽水湖の側に育って、田んぼと湖に恵まれて育った私も、見るもののほとんどがわかる。案内してもらいつつ沼田さんと話が盛り上がってしまった。
 別の所にも書いたが、民具の展示、農具の資料館という名の施設はいくらもあるが、物置にあった古い道具を集めて町の施設に押し込めただけで、民俗学的な知識を持った人が整理整頓しているところ、きちんと博物館と言える施設は少ない。この国は、人が暮らした証としての道具や歴史文化をひどくないがしろにする。
 しかし、ここは渋沢さんの息のかかったところであり、その意志を継いだ人たちがきちんと博物館を博物館たらしめている。伝統の技を今に継いでいる人が、訪れる人のために見せてくれる織物なども大切にされている。この博物館は、非常に興味を引かれる。そこで楽しんでしまうのが私の取材の目的ではなかったので、割と早めに廻ったがそれでも2時間に手が届こうという感じだった。
 ホテルの周囲をしっかり見て回ると、もう夜になった。
 
 まずは、温泉に入ってください、あとで食事をしながらまた話をしましょうと沼田さんが言ってくれて、部屋に案内された(これが大変、入るときに何気なく見逃したものがあった)。

 私の旅は、ほとんどが「予算のごく限られた」仕事の旅で、泊まるのはビジネスホテルである。取材仕事を終えて、食事という名の下に地元の酒を飲んで帰り、寝るだけである。長年のビジネスホテル利用が染みている私が、異常に広い、最上階の立派な部屋に案内された。
 広いのも、ゆったりしているのも珍しいが、その「広さと、ゆったりさ加減と調度品」がどうも尋常ではない。「私一人なんですから、もう、こちらのホテルの一番狭い部屋でいいんですよ」と、本格的な貧乏性が出た。しかし「せっかくここをご用意したんですから」とやさしく諭されて、承知した。それでも、まったく落ち着かない。
 で、部屋に立派な浴室があるとはいっても、温泉自慢なんだから「ひとっ風呂浴びてこよう」と部屋を出て、ドアを閉めて、ドアの横の壁を見て、驚いた。
 私は、両陛下がお泊まりになった部屋に泊まることになったのだ。
 おいおい。
 以前、両陛下がここにおいでになったときの写真と文章がドアの横に飾ってある。
 おいおい、こりゃいけませんよ。真面目にそう思いましたね。
 泊めてくれると言うんだから、気楽に泊まればいい、そんな経験ができる人はめったにいないんだからと、わかりますよ。わかるけど、私の存在がどうにも「日本で一番やんごとない方々」に対して、申しわけないではありませんか。
 旅して、酒飲んで、酔って寝るだけの奴が、そんな。これを皇居にいる方が読んだら気を悪くしますよ、本当に。読まないか。
 沼田さんも大胆なことをするなぁ,とつくづく思ったものだ。

 巨大な風呂、1000人が同時に入れるという風呂にのんびり浸かって、部屋に戻りました。この巨大な風呂、適度に混んでいたので温泉らしい気分を満喫できたが、その大きさからすると、なんですよ、イルカが芸をするプールにポツンといるようなもんですよ。

 ダーッと向こうまで「遠い」部屋。なにしろ、普通の宿泊客と一緒にバイキングでの食事というわけにはいかない方々なわけだから、食事をするためのテーブルがしつらえてあって、これが卓球台より大きなどっしりしたもの。このテーブルの広さ程度の小部屋にいつもは泊まっているんです私。で、和室と洋室がそれぞれにあって、好みで利用できるようになっている。他に居間というか、くつろぎの部屋もある。窓に沿って廊下といっていい幅の通路がある。ホテルの部屋というよりそこそこの家の、一階分と思えばいいわけだ。ワードローブなども大きく、バックパックひとつにコート、あとは我が身だけの私は、利用のしようがない。テーブルの上に全部おいても、端にちょこっとでおしまい。あの、空母の甲板の端に軽自動車があるみたいなものです。

 部屋は堂々と静まりかえっている。うろたえはしないけれど、次の一手がない。
 参りましたね。
 まぁ、希有な経験をすることになった、と思うだけである。ええい! こんな機会はないのだからと、部屋の中をスミズミまで観察する、という人間ではないので、自分の必要な空間だけを利用した。

 食事はバイキング。最近は外国の人も大勢来るので、好きな物を選んで気兼ねなくたっぷり食べられるようにということと、珍しいものを少しだけ食べてみることもできるバイキング式が人気だそうだ。寿司もあり、鍋物もある。
 鍋と固形燃料をもって鍋の準備をして、あとは具を持って行く。足りなければ、何度でも具を取りにいけばいいわけで、バイキングの鍋はいいアイデア。
 この地には、「煎餅鍋」というものがある。その名の通り、鍋に煎餅を入れて食べる。南部煎餅の地元で、昔から食べられていたものだという。適度に鍋を食べたあと、煎餅を大きく割って鍋に入れるのである。汁を吸ってふんわりしたところを食べる。あ、うまい。
 もしかしたら湿気てしまった煎餅を食べるための方法だったかも知れないが、米の粉を焼いたものだからまずいわけがない。
 今は、鍋用の煎餅をちゃんと作っているとのこと。鍋を食べ進んで、汁にうまみが充分出たところを食べるためにうどんだの冷や飯だのを入れるが、煎餅はユニーク。南部煎餅は子どもの頃から食べ慣れていたが、秋田にはこの鍋の文化は届いていない。

 私は、沼田さんとホテルの中にある居酒屋に入った。かなり大きな店で、青森の海の幸が並んでいる。ああそうだ、温泉というと山の中のような気になるが、海が近い三沢なのである。ホテルの中のレストラン、食事どころといえば値が張るのが当たり前といった感があるけれど、ここでは違っていた。「居酒屋」レベル。
 ちょうど冬の国体が行われていて、その選手団が大勢店に入ってきていた。話が時々耳に飛び込んでくるのだが、料理を食べたときの感想が「テレビのレポーター」そのまま。苦笑、苦笑。なるほど、マスコミの力は恐ろしい。大体、旅先の夜、軽く飲んで楽しく食べる場でいちいち口にしたものの感想を周囲の人に言わなければいけないと思っているのが変である。

 一日の感想を述べつつ、沼田さんにご馳走になって、「広大な部屋に」一人寝た。








(C)コダーマン 無断転載はお断り。仕事のご注文、承ります。
 引用、転載、出版については、メールでご連絡ください。

TOPへ