東西南僕 01
2002年06月13日(木)
 まえがき・旅のあとしまつ

 私の旅は、ほとんどが国内の仕事の旅。少なくともこの二〇年ぐらいの間の旅はそうである。
 それまでに行ったことのない街や町、村へ、初めて会うことになる人を訪ねて行く。いろいろな情報を探って、たぶん面白い話が聞けるだろう人を、思いがけないことを眼にできそうな場所を訪ねる。でも、会ってみるまで、行ってみるまでは不安である。
 これまで言葉を交わしたことのない人と話す、それもあれこれとうるさく質問して返事をもらう。その返事が、読んで興味深いものになるような、的を射た質問ができるかどうかこれが一番不安である。
 だから、行く前にその人に関連したことやその人の職業に関した知識を沢山仕入れて行く。「下調べ」というより、予習して行くという気持である。何を調べればいいのか見当がつかず、下調べが全然できない場合もある。また、そういうことをしない方が面白い場合もある。でも、良い質問を用意するには、予習は絶対に必要だと思う。
 その人に興味を持つきっかけになった雑誌の記事などがあればきちんと読む。職人さんであれば、その方面のことで私が知りたいことを列挙し、それを順序よく構成して、頭の中で何度も何度も質問の練習をしておく。沢山のことを知れば知るほど、深い質問ができると、私は思っている。
 基本的な知識から、長年の経験でその人だけが身につけた技の秘密に少しずつ迫って行く。こんな面白いことはない!
 他の人が取材して書いている文章と同じ質問は基本的にしない、それを下敷きにしてもう一歩踏み込んだ質問を考える。既に答えの出ている質問をもう一度するのは、愚かしい。雑誌で読んで納得しなかった場合や、他の取材の突っ込みが足りないような気がした質問を繰り返すことはあるが、他人の仕事をなぞるのは極力避けている。心ある人に「他と同じ質問」をすると、こいつは私のことを下調べもしないできたなと思われて、きちんとした応対をしてもらえないものである。私は、その態度が正しいと思う。
 大きな賞を受賞した作家に、記者達が「先生はこの作品で何をいおうとしたのでしょうか?」という(馬鹿も果てまで行ってしまった)質問をしているのを見ることが多い、少なくとも私はそういうことはしないということである。
 しかし、思い描いた順序のようには行かない。
 私は「職人仕事の、言葉にならない、言葉にしにくい、あるいは言葉なんかにしないところ」を語ってもらおうと思っている自分がわかっている。で、先方の職人さんも、自分が長年使っている刃物が竹に食い込んだ時の反発、あるいは食い込みの良さでその竹の質が「わかってしまう」のだから、それを言葉に移し替えて話すようなことして来ていない。言葉にする必要のない仕事なのだ。いつもと同じ力でも切れ味が少しだけ落ちたとわかれば、一旦仕事をやめてその刃物を研ぐ。職人の道具というのは、一つ一つがその人だけの物であって、その人が自分に合うように常に塩梅を整えて使いこなしている。切れ過ぎても切れなくてもいけなくて、砥石を使い、指を当てて、この鋭利さでいい、とわかるのは世界でその人だけなのである。そういう微妙な加減を話してもらおうとしているわけだ。
 ほとんど無理である。
 「そんなことは、私にだってもうわかっている」。
 でも、そこをなんとか別の例を持って来てもいいから話をしてもらう。それが私の楽しみである。私の、話を引き出す「技」とでも言おうか。打ち解けて来た時に、言葉にしなくていい仕事について「ふと」思いがけない言い方でつぶやいてくれることがある。
 それが聞きたい。
 それを口にしてもらえるようにその場の気分を創りたい。そう思って出かける。
 必ずしも、職人である必要はない。きちんと本音を語る言葉を持つ役人も沢山いる。
 私は、たいていは聞くことに夢中になってしまう。この人の話は「面白い!」と思っているので、いつの間にかのめり込んで必死になって聞いている、その「必死」が相手に伝われば、熱心に答えてもらえるようだ。「こいつは、俺の話を本気で聞いているな」と思ってもらえた、ということだろう。相手に、話すことを楽しんでいる様子が見えた時には、本当にうれしい。私も、話が面白くて、次が聞きたいから気持が前のめりになっている、といったところである。
 それに、私の取材は話の「横道」が、大歓迎である。話が逸れたら、その人が、本筋とは関係ないがちょっと「面白い話をしてやろう」としているのであって、つまりノって来ているのだから、横道を奥まで行ってもらう。そして、元の道に戻れるように、横道に入る前にしていた質問を忘れないようにしておく。
 そういうことをいつも思い描いて会いに行く。
 そうは思っても、現場に行けば予想と違うのが当り前で、大体いつでも臨機応変である。普通の言葉で言えば、いきあたりばったりである。いきあたりばったりも、下調べしておけば対応できる。
 それに、私の場合は、相棒に恵まれてきた。カメラマンやディレクター、コンビを組んだイラストレーターなど、日常的に一緒に過ごしている仲間がいる。私の質問がやや煮詰まった時に、横から思いがけない質問をして、相手の心を軽くしてくれるし、こっちの熱を冷ましてくれる。
 気心の知れた仲間、興味の対象が微妙に違う相棒に恵まれて来た。
 そうした仕事の旅をいくつもしてきた。
 取材して原稿を書けば、仕事はそれで完了。
 でも、書けなかったこと、書かなかったことがあまりにも沢山ある。二時間も話して来てそれを録音し、取材の目的に合った部分だけを使うと、せいぜい十分間程度を使うだけになってしまう。その十分間の話でも、全部文章にすると実に長いのだが、それ以外に面白い話は沢山してもらっている。それが、もったいないからどうしても書いておきたくなって、個人的に「旅のあとしまつ」をつけておこう思い立った。

 旅のあとしまつといえば、お世話になった方へのお礼の手紙がある。
 ただ取材について行っただけの若い頃は別にして、大人になってからは、座って向い合って話した方にはどんなに短くても礼状を出すようにしている。近年やっと、出せるようになった。
 ただし、腹を立てた相手には礼状は出さない。
 建前の返事しかしていない人。取材なんてこの程度でいいやと決めているらしい人などには、返事を出さないこともある。
 私にどう書くかの決定権のある仕事の場合には、こっちを口先であしらおうとしてくれた人や、建前ばかり言ってその人の話を記事にする価値がないと判断した場合には、取材記事を書かないことにしている。
 以前取材された内容が載っている雑誌のコピーを渡して、「そこにみんな書いてあるから」と言うような人のことを書く気はしない。あらかじめこちらの取材目的を了解してもらって、取材の約束をし、言われた時刻にきちんとその場所に行っているにもかかわらず、そういうことをする人が「かなり」多くいるので驚く。
 それなら取材はいやだと言ってくれればいい。そうしたら、私はわざわざ緊張でキリキリする胃袋と一緒に出かけたりはしないのだ。
 そういう人には、私は礼状は出せない。
 そういう意味では、私は、充分厭やな奴である。

 また、仕事の文章では掲載誌の目的に沿ったことだけを書くので、聞いた話が面白くても書けないことが沢山ある。
 きれいな川の話を取材に行って、上流の村の写真を撮りに行ったとして、その村では生活排水をすべてその川に流しているとわかってもそのことは書けないし、写真も載せられなかったりする。中流域からは両岸の町も大きくなって、公営の汚水処理場があるにしても、上流の村ではその予算が足りない。川沿いに「川を守りましょう」という看板を立てるのがやっとで、村内の家は全て川を排水処理に利用している。
 きれいな川、豊富な水と共に生活している川沿いの人人、そういうことを目的にした取材では、そんなことは書けないでしょ? 私でも、悩みはするんだけれど、書けない。
 取材しても媒体によって書くわけにいかないことも多い。これはかなり苦しい。問題を追及するような書き方をしていいのなら、そのことを書くのだけれど、書けないことがままある。
 例えば、洗剤の会社が出している「PR誌」にはそういうことは書かせてくれないだろう。川に「やさしい」洗剤が、生態系を「あまり乱していない」ということだったら何とか許してくれるかもしれないが、上流の家々では台所からも洗濯機からも風呂場からも排水を流しっぱなしでした、とは書けない。食器用洗剤、衣類用洗剤、石鹸・シャンプー・リンスが川に流れっぱなしということだもの。それがどれほど川に悪影響を及ぼすのかをきっちり教えてもらう取材もしたことがあるので、素人の「上」ぐらいのレベルの知識も持っているつもりである。
 素材がどれほど「自然の物」になっても、洗剤には界面活性効果があって、それが実は生態系をボロボロにしていくことを私は知っている。でも、それを書くことを望まれていない媒体では、書けないのだ。それはわかってもらえると思う。
 「やさしい」も「あまり乱していない」も、河川の生物に影響がない、ということではないのだ。どう頑張ってみたところで、化学が産み出した製品が川に流れ出せば水棲の小動物に全然影響を与えないということは考えられない。超微量成分で環境ホルモンと呼ばれる物質が沢山あることを知った今、環境に優しいなどと「間抜けなこと」をお気楽に言っている場合ではないと思うようになった。
 取材というのは、それが済んでから、マイナス面を書く方がいいのかプラス面を書く方がいいのか、文章だけれど「口ごもる」ようなことがある。
 もともと私は責める役を担っているわけではなく、多くの場合は興味深い話を伝えるために取材しに行く。確かに、普通に考えて責めたくなることがとても多いので困るのだが。
 良くも悪くも、これまでにそうしてこぼれた話をしてみたかった、という次第。

 旅のガイドブックにはなっていません。
 それに、読んでみればわかりますが、なんだか文句ばかり言っている。私は「文句をたれる厭やなジジイ」を目指して生きているタイプの人間ではある。
 大人の旅の楽しみ方の一つ、まぁ、私は仕事を絡めてこんな風に旅を楽しんで来ました、という話をまとめてみた、旅のあとしまつ、ではあります。




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