東西南僕 03 阿波おどり
2002年06月19日(水)
 阿波おどりに、目が利かない

 徳島に行くことになったとき、困ったことが一つあった。
 徳島の酒情報がないこと。周囲にいる名だたる酒飲みたちの、誰に聞いても「徳島へ行ったらあの酒だ」、「徳島市内だったら、あの店だよ」という情報が皆無だった。徳島の酒の造り手には悪いが、清酒情報の不毛地帯だった。

 飛行機で徳島に到着すると、空港の玄関前に阿波おどりの像。街を歩けば歩道のタイルに阿波おどり。橋のたもとに阿波おどり。観光案内、パンフレット、看板、お土産屋さん、徹底的に阿波おどりである。なるほど徹底して阿波おどりの地なんだな、と思ったものだ。
 徳島といえば、どうしたって阿波おどりである。七月末に出る冊子のために取材に行くことになって、五月下旬徳島に向かった。本番のふた月半ほど前なので、まだ阿波おどりの気分が盛り上がっていないだろうし、踊りの取材ができるだろうか、と心配していた。その心配が全く無駄だったことは徐々に紹介します。

 まず、阿波おどりの、踊りの違いがわかる人に会いに行った。
 阿波おどりを踊る時のひとつのまとまりを「連」といいます。数々ある連の中に、その名を『阿呆連』という、名門の連がある、その連長さんに会った。『阿呆連』は昭和二十三年から続いていて、唯一正調郷土芸能に指定されている連です。
 観光客の目で見ると、阿波おどりの踊りそのものはどの連もあまり違いがないように映ってしまうんですが、皆同じなんですか…と質問すると、「何を馬鹿なことを言っている!」という雰囲気で、さっそく身ぶり手ぶりつきで色々と教えてくれました。
 目の前で、阿呆連の踊りはこう、ナニ連はこう、カニ連はこう、と踊ってくれるのだが、違いが見えない。カメラマンに視線で聞いてみても、「はて?」といった顔つき。
 我々が阿波おどりにまるで眼が利かないことを見て取った連長さん、立ち上がって、基本から始めてくれた。

 阿波おどりには男の踊りと女の踊りがある。女性たちは下駄を履き、つま先立って踊り続け、下駄の後ろの歯を地面に着けないのだ。
 足袋はだしの男性たちは、足の裏側を地面に下ろす。独特のリズムに合わせて一度出しては別方向に足を踏み出す、という動きはご承知の通り。これは、はっきりわかる。また、提灯を持って踊る連、団扇を持って踊る連もある。
 阿波おどりは、イチニ・イチニの単純なリズムなので踊るのは非常に簡単。踊りやすい一方、決まった振りがないので、らしく踊るには、難しいといえば難しいように思う。「それだけで上手下手が出るんやけど、こればっかりは阿波おどりを長年見ているものでないとまるでわからんと思う」とのこと。全くその通りで、目の前で見せてもらいながらまるでわからない。
 巧い人はこういう風に巧く、下手はこういう風になってしまうと、連長さんが徐々に乗ってくる。それに連ごとの踊りの違いについても、連長さんは再三部屋の隅に移動して踊りながら我々の方に向かって進んでは、別々の連の踊りを見せてくれた。
 踊りが激しく豪快、上げた腕を肩の線から下げないように踊るのが、阿呆連の踊り。天覧踊りを披露したこともある「娯茶平連」の踊りは、わりとゆったりとした踊りで、明暗の変化に創意をこらしている、「のんき連」の踊りは動と静の切り替えに特徴がある、と連長さんは解説してくれた。阿波おどりの「明暗の変化」「動と静の切り替え」なんて、考えたこともない。
 わかりやすい例を挙げて、しかもわかりやすく眼のつけどころを教えてくれたから、違いがあるということだけはわかったが、とても阿波おどりに眼が利くようになるのは無理。
 とはいっても、阿波おどりを見に行く人はそういうことを気にかける必要は全くなく、見る阿呆から踊る阿呆になってしまうことが大切らしい。連長さんも自分の連の人に「踊りは少々下手でもいいから、一所懸命に汗を流して踊れと言うんです。そうすればお客さんに感動してもらえる」と言っている。鑑賞眼などは不要。
 失礼ながら、阿波おどりを鑑賞する目があるとは思いもよらなかった私。

 連は、普通は25〜30人ぐらいの編成で、女・男、鳴り物が、それぞれ女10人、男が10人、鳴り物が5人ぐらいになっているのが、踊りやすく、見る方にも美しいそうだ。並ぶ順は、女、男、鳴り物、ということになっていて、後ろから聞こえる自分たちの連の音を聞きながら進んで行きます。連の人数が増えると鳴り物も多くなければバランスが悪いという。
 女性は30歳を過ぎると阿波おどりを踊らなくなるそうで、阿波おどりは、踊り手が抜群に若い。他の地方で民謡、盆踊りなどをやっている人に「徳島は若い踊り手がいて良いな」と、必ず言われるそうである。
 各連の名前入りの団扇は、もちろん、特注。踊る時に腕を動かしやすい空気抵抗の少ない形で、柄の部分は持つ時に邪魔になるので踊り手達は自分の動きにマッチするように切り落とすそうです。なんと、阿波おどり用の団扇を作っている団扇屋さんまであった。

 ところで、阿波おどりはいつ頃から練習が始まるんでしょうか、と聞いてみた。練習を始めている連があればそこを訪ねて写真を撮りたい、そうでなければ、連長さんの連の方に集まっていただいて写真をお願いしたいのですが…と遠慮しつつ話した。
 真夏の四夜のために、梅雨の前から練習を始めていると言う。「え! あんな単純な踊りのためにそんな早くから」と思ったが、口にはしなかった。
 でも、そう思うのが普通でしょう。

 徳島の盆踊りを「阿波おどり」と呼ぶようになったのは昭和二十一年から。それまでは、単に阿波の盆踊りだった。盆踊りそのものは既に四〇〇年もの歴史を持っていて、各地域ごとに集まって踊っていたのを、観光目的でまとめあげて行ったというところ。
 写真が残っている明治、大正、昭和初期の「阿波の盆踊り」は、その踊り同様に実に自由な雰囲気があふれていて、その時々の流行の楽器やファッション、話題の芝居などをすぐに取り入れて楽しむ、というものだったようだ。仮装盆踊り大会といった感じである。
 今のように連を作るのではなく、町内の人々が集まったり、同じ商売の人々が仲間を作ったりということも多く、また芸者さんなどきれいどころが街を練り歩く様子も写真に残っている。今より派手で、写真に移っている人たちの表情が実に明るい。
 阿波おどりの素晴らしい点は、その踊りの明快さのせいで、小学生、中学生、高校生が踊ってくれることである、という。伝統的な芸能、ということになると長い経験がなければ人前に出て踊れないことが多いが、その点で全く違う。体力を使い、エネルギーを発散し、汗をかいて踊りまくる。各地の民謡関係者や、伝統芸能関係の人がうらやましがるのもわかる。
 ところで…
 観光で行った人が、どうしても阿波おどりを踊ってみたくなった場合は、入れてもらえるのですか? と聞くと。
 「にわか連」という、その時に作ってしまう連があって踊れるそうだ。
 まず基本のレッスンがあって、有名連の鳴り物に乗って、沢山のお客さんが見ている演舞場に繰り込んで行く。こうした「にわか連」のほかに、有名な連に入って踊ってみたいという場合は、連絡を取ってみることをお薦めします。阿呆連では、入れてあげますよと言っていた。
 これまでに阿波おどりを踊ったことのない人、癖のない人の方がその連の踊りになじむのが早いとのこと。時々、別の連に移って踊ってみたいという人がいるそうだが、経験があるのですぐできてしまうものの、前にいた連の踊りの癖が出て来てしまうので、あまりよくないという。つまり、それほど連ごとの踊りに個性があるということになる。
 阿波おどりの足運びは、右手を出した時に右足を出すという「変則」なので、これが案外やっかい。「にわか連」ならこれさえ覚えてしまえば充分というところ。
 地元の有名連では、新人も、数年の経験者も、十年以上の経験者と同じように踊れるように、そして、全国からに見来てくれるお客さまに感動してもらえる踊りにするために、五月ころから練習を始める。夏になれば、町内のそこここから「チャンカチャカ・チャンカチャカ」の二拍子が聞こえてきて、いても立ってもいられなくなる、といった阿波の踊り手達。

 阿波おどりの起源について。
  一・「築城起源説」。天正十五年蜂須賀家の徳島城が完成した時、城下の人々を城に入れて無礼講の祝賀行事をしその時に踊ったのが始まりという説。
 二・「風流踊り起源説」。能楽の源流をなすといわれる風流踊りが、この地で天正六年に行われ、それが阿波おどりの原形になったという説。
 三・「盆踊り説」。昔から踊り続けてきた旧盆の盆踊りが元なのだという説。事実徳島市内だけではなく、県内のあちこちに「阿波おどり」と同じ盆踊りをするところがあります。
 以上の三つで、まだ結論が出ていないとのこと。
 ほとんど自然発生的に、町内ごとに踊っていたのを観光の目玉にまとめ上げていったとすれば、起源ウンヌンではなく、普通の盆踊り説が的を射ているのではないか。その起源を古く、古くして行かなくても、これだけ定着しているんだからモヤモヤっとさせておいても誰も文句は言わないと思うけれど。
 私は、話を聞いていて、逆に、あまりにも阿波おどりとしての行事が大きくなって、周辺の町々の本来の姿の盆踊りが消えつつある方を嘆く。本末転倒である。盆踊りはやはり地元のものであり続ける必要があると思う

 色々お話をうかがって、連長さんのところからおいとましようとしたとき、追いかけるように、阿波おどりは毎晩やってますよ、と言う。
 「えっ! 毎晩!!」本当に声が出た。
いかに熱狂的で、日本中を興奮させる阿波おどりでも、開催時期をはずせば見ることができないだろう、と思っていたのが大間違い。「さすが!」 と驚き。そこまでやるものかと、感心してしまったのが『毎日おどる阿波おどり』。
 徳島駅前の、シビックセンター( 徳島駅前アミコビル内)で夜ごと阿波おどりを見ることができる。さすがに、一年を通じてというわけにはいかないが、観光客の「せっかく来たんだから阿波おどりを見たい気持」を満足させるため毎晩、チャンカチャカ・チャンカチャカの二拍子が響きわたっていた。
 各連が交代で出ている。その連の特長を出した踊りを披露し、阿波おどりの手ほどきをして、客と一緒に踊る。連の人の稽古もかねているとはいうが、私は、呆れてしまった。この熱心さにはかないません。
 私は、取材のために二晩覗いた。同行のカメラマンは、違う浴衣の連を撮影するために三日連続通った。じっと見ていると、確かに連ごとに踊りが違うことだけはわかるようになった。
 で、これが、けっこう楽しいのである。踊る阿呆になるか、見る阿呆になるかは自由、というところ。目の前に出てくるのがひとつの連だけでも、想像以上に盛り上がるのは二拍子の気持ちよさのせいだろう。座ってみていると、二拍子のリズムに体全体が揺れだす。ははぁ、こうして踊る阿呆になるのだな、と思いながらも少し照れる。照れながらも、ノリの良さで立ち上がる。こうして、各地から訪れた一杯機嫌の観光客をみごと「踊る阿呆」にしてしまうのだ、阿波おどりは。
※現在はどうなっているか、確認していないので、もし徳島に行く人は確認してください。
 
 さて、こうした取材をすませて、夜、酒を飲みに出かけました。
 初めに書いたように、徳島の酒情報が皆無。で、一軒目としてビールを飲んだのは「地酒揃っています」という店だったが、徳島県の酒を一本も置いていなかった。徳島の飲み屋で、新潟の酒や富山の酒を飲みたくはない。ビールを飲み干してすぐに出た。
 私は、自分が住んでいる土地の地元の酒を愛さない飲み屋の主人は、信用しない。少なくとも、他から来た人に「地元の酒だったらこれです」と、個人的に薦められる酒を置くぐらいの配慮はあってもいいと思う。
 で、二軒目を探しに行った。
 この時一緒に旅したのは、「雨男さんと、段取り名人」である。この二人についてはそのうちに書きますが、有名な「晴男(はれおとこ)三人」ぐらいが同行しても、たった一人の力で豪雨を降らせる雨男さんです。私たちの周辺では有名な人です。段取り名人は、起こりうる状況を考えておいて「およそ考えられる何が起きても」平静に写真を撮る人です。考えもしない事態が起きても、カメラバッグの中から何か引っぱり出して「ヘッヘッヘ」と笑いながら、状況に合わせてしまう。それでいて、バッグは小さい。
 この時も、雨男さんは、ちゃんとジャブジャブに降らせました。
 雨男さんも段取り名人も酒飲み。それに私を入れた三人が歩いていて、通りを挟んだ向かい側の赤提灯を見た瞬間「あれだね」と、目をかわしただけでそっちに向かった店がありました。
 ウンもスンもない。見事な店でした。時代に鍛えられた、いい飲み屋の「金色のもや」が立ちこめていました。
 徳島の酒、めぼしい酒をすべて揃えてありました。で、瀬戸内の魚を並べてあり、刺身、煮物、焼き物、どうでもおいしく食べさせます、といったご主人でした。
 煮魚、焼き魚は奥さんが裁き、刺身と酒の塩梅を見るのはご主人。
 このご主人に、実はある店で「徳島の酒は、駄目だ」と聞きましたが、やはり土地の酒を飲みたくてこちらに来ました。ご主人はいつも出している徳島の酒をまず飲ませてください。ところで、徳島の酒は、駄目といわれる理由はなんですかと単刀直入に聞きました。
 阿波の酒、徳島の酒と聞かないでしょ? こちらでもそうは言ってこなかった。実は、江戸時代から徳島では伏見の酒を造ってきたんですよ。海で言えば、向かいですからね。全国に送られる伏見の酒は伏見だけでは足りなかった。だから、杜氏が徳島に来て、伏見の酒として出すための酒造りを指導して帰り、できた酒を船で伏見に運ぶということが長く続いた。
 そう言います。
 で、近年になって、そういうことが減ってきたのと、徳島では徳島の酒を造るべきだと蔵元の人たちも熱心に動いて、各社「自分のところの個性」を出しつつ酒造りに打ち込んでいる。
 そう、主人はいった。ね、いい話でしょ。こういうことを聞き出すのを、私は「夜の取材」といっている。これ、ほとんど自費。この「夜の取材」は、地元の人が集まる店でやることになるので素晴らしい情報を聞かせてもらえることが多い。詳しく聞いて、仕事の取材として追加したこともかなりあるのだ。
 さて、鳴門鯛、阿波鶴、剣鯛といったいかにも阿波の酒らしい名前の酒や、三芳菊、芳水、瓢太閤などなど、旨い酒がある。雨男、段取り名人と私は、微妙に酒の趣味が違う。だから、そのご主人が店で出している酒を基準に、「これよりサラサラしている酒」、「もっと個性を出している酒」、「ドーンとしているのはどれですか」というようなことをいいながら、自分の口に合う酒を選び出して落ち着いて飲み始めた。決まるまで三合ぐらいは飲んでしまったのだが。
 「徳島の酒が駄目です」と言うのは簡単だろう。しかし、このご主人のように、地元の酒を語って欲しい。そういう店を探しては飲み歩く私のような者には、絶対に必要な人であり、店なのだ。
 徳島で取材をしている間、市内での夜は必ずこの店に飲みに行った。
 徳島に来る友人には、この店のことを話しておきますよ。と言うと。
 ご主人は、先の人生にやりたいことがあって、いつまでもこの店をやるつもりはないんですよ、妻に苦労をかけたので、店を閉めたら一緒に日本中を旅をして、その後やりたいことを実現しようと思っているんです。そう話してくれた。
 やりたいことがなんだか、そんなことは聞かなかった。その主人がいるときに、その店に行けてよかった、ということにしてある。
 




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