東西南僕 05 麺
2002年06月28日(金)
 蕎麦、うどん、素麺

 仕事で出かけた土地では、取材相手の都合に合せて動かなければいけない。空き時間が少ないせいもあり、蕎麦が好きなせいもあって、地元の蕎麦屋によく入る。かなりよく入る。
 どこだったか、移動中に、夜は酔客用に蕎麦を打つという店を見つけていたので、飲んだあとそこに寄った。そしたら、テーブルをひっくり返したくなるようなまずい蕎麦を出されたことがあった。私は「もり」を半分ほど残した。
 「蕎麦とは…云々」というひとくさり宣った看板を店頭にぶら下げてあって、そのぐらい語るのだからさぞかしうまい蕎麦を食べさせてくれるのだろうと思った。しかし、その蕎麦のまずいことまずいこと! 手打ちで「こうもまずくできるのか!」と驚くような蕎麦だった。

 私は、細目で「太さ」の揃ったシャキシャキした蕎麦が好きである。もりを食べるのが基本。普通だったら、二枚。緊張する仕事が続く時には、満腹しているとダレるので、一枚で我慢する。蕎麦つゆは、東京風のしょっぱい・濃いのが好きだ。
 暖かい蕎麦だと、季節物では鴨南蛮、あるいはあられ蕎麦。でなければ、たぬき蕎麦を食べる。
 カレーでありさえすれば何でも好き、という嗜好があるが、それと似たようなもので、ここまであれこれ書いたが実は蕎麦でさえあればだいたいは食べるのだ。だから出来のいい駅の立ち食い蕎麦などをけっこう愛している。
 うどんの場合は、関西風でも関東風でもかまわない。つまるところ、めん類が好きということになる。
 が、が、である。ベチョベチョは困る。
 本当に箸にかからないぐらいのうどんを出す地域があって、糊なんか食えるか! と怒ったことがある。いわゆる腰のある、シコシコがいい。ざっと言うと、関西から西に行くに従ってうどんが柔らかくなる。麺食い文化と糊食い文化とに分けた方がいいと思ってしまうぐらいである。
 「柔らかくておいしいね」と言いつつ、箸にかかると切れるほどのうどんを食べる一帯があったんです。それほどどこで食べてもベチョベチョ・エリアがあった。
 また、そばつゆの甘いのと薄いのがどうしても好きになれない。さらにいえば、あまりに高級感を漂わせる蕎麦屋も嫌いである。昨今、おいしい蕎麦を出すというのを自慢にしている店が各地にある。もう、本当に日本各地にある。うどん地帯だと認識している場所でも、蕎麦に「こだわっている店」ができている。

 蕎麦は五穀に入らず、土地がやせていて穀類の生産ができないような場所の救荒食として栽培されていた植物でしょうに。だから、蕎麦自慢というのは、その土地が痩せていることを宣言しているようなもの、「この辺は、蕎麦しかとれなくて(こんなものしかないんです、お恥ずかしいけれど)」なのである。だから、昔ならそれほど自慢しなかったかもしれない。それがなんだか「米あまりの異様なグルメブーム」というやつで、フランス料理などに比べれば商売が始めやすいだろう蕎麦屋が、あちこちにできたのだなと、私は読んでいる。
 蕎麦屋商売が安直にできる、などとは全く思っていないが、初めに地下室をこしらえる算段をして、ワインのストックから考え始めるべきフランス料理のレストランよりは苦労が少ないだろうという程度の表現である。食べ物商売・客商売が安易にできるわけがないことはわかっているつもりだ。

 手打ち蕎麦の「手打ち」であることを売り物にするというのは、蕎麦屋としてはおかしいでしょ? 蕎麦屋として当り前なんだから。手打ちが「非常」に珍しいのであれば別にしても、蕎麦は手打ちが基本だからそれを売り物にしたり、自慢したりするのはその心がわからない。手打ちを自慢しているような態度を私は馬鹿にする。相撲取りが、私は裸で相撲をとるんです、といってるようなもので蕎麦屋が手打ちを自慢してはいけない。手打ちうどんも同様です。
 それと同じで、揚げたての天ぷら蕎麦、だって当り前で、これを売り物にしてはいけない。
 蕎麦屋として当り前のことをきちんとやっていて、その上で自慢のおいしさ、というのであれば、自慢したり売り物にしたりしていいと思うけれど、そうでなければ変でしょ?
 余談だけれど、愚かなレポーターが出てくるテレビの食べ物番組で「ネタが新鮮な寿司屋」と平気で言うでしょ? これを私は、馬鹿だ、と断言する。寿司屋はネタが新鮮で「最低線」の当り前ですよ。寿司屋に向って、ネタが新鮮が誉め言葉だと思うことがもう愚かしい。そういう発言で誉めていると思っているらしい「の」がリポートに行くからことがおかしくなる。
 それと似たようなもので、蕎麦屋・うどん屋では手打ちや揚げたての天ぷらは、当り前である。私が言っていることは、至極常識のことのみ。

  旅でよく出会うのは、この辺は水がいいので蕎麦やうどんが旨いという文句。これです。どうしたわけか近年流行の名水、その近所に必ず名水で作った蕎麦やうどんを売り物にしている店がある。これも、まずい水をそのまま使えば問題外だが、東京だの大阪だの水道水がまずいと「言われている土地」の、名を知られた蕎麦屋だって、ちゃんと水の対策をして、充分おいしい蕎麦を出している。
 水がいいというだけによりかかって、あとは全部不真面目に作っている蕎麦屋が名水の周囲にいくらもある。名水だけが旨いのであって、蕎麦はちゃんとまずい。名水にすまないじゃないか。大体90%以上が水分である豆腐の場合は決定的に水の良さが豆腐のおいしさに反映されるが、蕎麦における水の影響がどれぐらいのものなのだろうか。水道水を工夫して使っている東京の老舗の蕎麦屋の蕎麦と、名水の側で出しているだけという不真面目な蕎麦、かなり違いがある。圧倒的に東京の蕎麦の方が旨い。

 旅をしていて、その時の仲間と、よく「この辺は蕎麦文化? うどん文化?」などと言ったりしながら街を抜けて行く。素人の物言いだけれど、蕎麦の地域とうどんの地域が確かにある。
 大雑把に言うと静岡の西側か名古屋あたりから始まって関西から西はうどん、静岡あたりから北は蕎麦。これはものすごく大雑把だけれど、気分的にはそうなっている。突然、群馬県のようなうどん地帯もあるにはある。これは、小麦のとれるところ、救荒作物として蕎麦を蒔いて来た歴史のあるところ、というようなことや、水田を拓くのが困難でもともと蕎麦を育て小麦を育てこねて食べていた土地など、歴史的な背景があるはずだ。山がちな場所と平野部の違いもある。
 近年は、そういうことがなくなって、どこに行っても蕎麦・うどんはある。おいしい蕎麦・うどんと、まずい蕎麦・うどんがある。
 九州を移動しているとたいていうどんで、少し蕎麦が混じる感じだし、四国となるとほとんどうどんである。讃岐に行って蕎麦を食おうなどというのは、へそ曲がりである。

 私はとても幸運な取材をした。
 うどんでは、大阪で、「きつねうどん」を発明したうどん屋さん、「松葉屋」で取材することができた。今の二代目のご主人の素材選びの話が面白かった。
 かつお節はどこのもの、昆布はどこ、砂糖はあれで、塩はなにと決めてあり、自分はそれがおいしいと思って利用しているとだけは言っていた。
 私の味覚からすると、きつねの揚げは「かなり甘い」のだが、甘味のもとは三盆糖だそうでサラリと舌の上を過ぎていく。「ああ、考えてあるものだな」と思った。また、うどんは讃岐や関東好みの「腰の強いもの」ではなく、見事にツルツルのどに落ちていく軽やかな感触だった。そして、たかが「きつねうどん」なのに、全体として、どうももう一杯食べたくなるような実にいい塩梅のうまさなのだ。個性を出して、もっとうまいきつねうどんはありそうな気がする。ところが、全体としてのバランス、味わいの心地よさでは松葉屋以上にお目にかからないのだ。そういうものなのかもしれない。なにしろ、発明した家の味だからね。
 素材について、今使っているものが手に入らなくなったらどうします、と聞いた。やめるかもしれないとご主人は言ったが、実は、きつね以外の材料は貯えて寝かせて使っているのでかなり先まではお気に入りの物がなくならない様子だった。
 この人は、まずいと言われる大阪の水道水を利用している。「琵琶湖の水、つまり日本の真ん中の水ですよ、これを使わない手はないでしょう」といい、汲みおいて、ある石をその水につけて一晩経ってから利用していると教えてくれた。そんな風にしていながら「こだわる」気持ちは更々ないとも言っていた。
 ここでの体験で、うどんの腰が強ければいいというものでもないと頭では理解している。でも、どうしても食感からいくと、腰のあるクニュクニュの強いうどんが好きなのだ。

 また別の時には、奈良の三輪山のふもとでは、素麺づくりについてみっちり聞かせてもらった。 素麺は、その一帯に素麺づくりの家が何軒もあって、それぞれにつくり上げた物を売り手がまとめて買い上げ、土地の名前で全国に出荷している。そういうシステムである。個人の名前で、誰々さんの素麺という言い方は普通はしないようだ。そういえば、三輪素麺は誰が作ったのがおいしいといういい方を聞いたことがないと思い当たった。
 素麺は全く昔ながらのつくり方で、小麦粉のグルテン質の強さを利用して延ばして行くだけである。と、食べるだけの私は簡単にいってしまうが、
 素麺は、出荷する時に既に「寝かせてから出している」ので、買った人がさらに寝かせるということはしない方がいいということを教えてもらった。物知りの人の方が「素麺は寝かせるとより旨くなる」と思って、寝かせてしまい、かえって駄目にしてしまうことが多いという。適度に枯れて、それでいて麦の旨さが味わえる状態で出荷するという。上物は冬を二回越えてから出荷される。素麺には、綿実油を使うけれど、これは練り込むのではなく、素麺をある程度長くしてから寝かせるときに、くっつかないように、表面に塗るために使われる。この油っけも寝かせている間には消えてしまう。
 素麺の産地とされる土地がある。延ばして折り、延ばして折りを繰り返して細くしていき、最後は野外に晒すことになる。この時に、適度な乾燥、澄んだ冷気、太陽が必要で、歴史的な条件の他に気候的な条件も産地を限定しているようだ。

 伊豆では、東京の蕎麦屋の老舗の二代目さん(初代の息子さんたちの一人)が開いた蕎麦屋で楽しい時間を過ごすことができた。
 この方は、長い間東京の店で蕎麦を「忙しく」打って来たので、少しのんびりと、好きなようにやってみたい気持ちがあり、しかも偶然いい水を見つけたのでそれを使って小さな蕎麦屋をやろうとして引っ越したのだった。
 そうしたら、その人の蕎麦打ちの腕と名声を知っている全国の蕎麦屋希望者が「蕎麦打ちと蕎麦屋商売」を教えてくれと続々やってくるようになって、自分の蕎麦屋商売を辞めるしかなくなり、とうとう蕎麦道場を開くことにしてしまったという人である。
 ひと月五人、毎日蕎麦を打って、さまざまな蕎麦料理も教える。ひと月きちんとやれば商売ができる腕前にしてやる、ということで熱心に教えていたし、習う方も真剣だった。蕎麦屋開業に必要なさまざまな手続きについても応援するが、まず正しい蕎麦を打つことを覚えなければいけないという次第で、ひと月間みっちり蕎麦は毎日打つのである。
 基本の蕎麦を毎日打ちながら、蕎麦屋で出す「蕎麦ぜんざい」だの、焼き鳥だの、その周辺のものも教えるわけだ。
 そこで、既に三週間ぐらい蕎麦を打っていて、本気でプロとしてやっていくつもりの人が打った蕎麦と、先生が打った蕎麦を満喫することができた。生徒たちの蕎麦も、見事においしかったが、先生の蕎麦は「私のその後の蕎麦というものの意識を変えるほど」だった。
 何も秘密はない、技を盗めなどというのも愚かしいことで正しい技術を明確に教えるべきだとその師匠は言った。
 気温と湿度と、蕎麦粉と水の関係を自分で調べてグラフにしてあった。蕎麦打ちの仕事場、それも打ち台の横に温度計、湿度計を備えていた。グラフとその日その日の気象を参考にしながら蕎麦を打ち始めるわけだが、そんなものを見なくても勘でわかるようになるし、きちんと教え、正しく理解して練習すれば手の感覚でわかるようになるものだと言っていた。
 私は、その「職人仕事=経験の積み重ね」というパターンをやすやすと打ち壊して、蕎麦粉と湿度・温度と水の量関係のグラフを利用する感覚、そうした考え方に感心してしまった。あらゆる「なぜ」に、たちどころに答える師匠の知識、それを厳しくも明確に伝える道場のありように感心した。
 そこで、プロ志望者たちと先生が打ち終えた蕎麦をすぐ茹でて、すぐ食べるという幸運に恵まれたのだ。それも「我々用に」打ってくれたのだからブッタマゲタ。
 まず、弟子の蕎麦に感心した、一つには単純明解にうまいということ、また、同じように教わり、同じ割合の素材で打ったにしてもそれぞれはっきり違っていてなお「おいしい」ということである。複数の蕎麦職人の蕎麦を同じ条件で食べることはそうそうあるものではない。口の中で「この人のはやさしい」とか「粋だ」とか「真面目だ」という感じが出る。これも、面白かった。食べ物というのはそういうものなのだ。
 最後に師匠の蕎麦もいただいた。弟子とは、はっきり差があるほどおいしいのである。一本一本の蕎麦の態度が「師匠のは違っている」のだった。
 そういうものだということを理解した。
 師匠は、弟子達の蕎麦ももう充分そば屋をやっていけるレベルに達しているとはいったが、違いはわかっても、何がその違いになっていくのかの謎が不思議で、今思い巡らしても「楽しい」思い出である。
 とてもおいしい蕎麦を食べることができた幸運というのは、その後口にする蕎麦がそれを越えないという不幸をもたらしたが、私の舌の記憶など日に日に薄れて行くので、また「立ち食い」でもおいしいと思うようになっている。
 うどん、素麺、蕎麦、いずれも日本を代表するクラスの人達のところで話を聞いて、とても良かったのは、どなたも全く「こだわっている」という言葉を使わなかったことだ。一九九一年あたりから、食べ物番組でやたらと「こだわりの」という下品な言葉を使うようになったけれど、お客さん相手に料理を作っている人たちの多くは、自分からはその言葉を使わない。
 なぜか? 今まで使っている物よりいい素材が手に入るようになったら、そっちを選ぶ。前の物に本来の意味で「こだわって」いたらより良い方にいけない。
 また、ある日、ある素材が入らなかったからといって、その日商売をしないというのは、プロではない。この素材でなければ自分の味が出ないだの、満足できないい場合は捨ててしまうだのというとテレビ局は喜ぶかもしれないが、プロとしてはろくなもんじゃないでしょうに。腕のなさをハッタリでごまかしているんじゃないのか。最低でも充分客に出せるものを連日作り続けることができる腕を持つことこそプロである。あるいは、休まなくてもいいように手を尽くしておくこともプロの必須条件である。
 テレビではそういうのをドラマチックに仕立て上げたいのだろうが、テレビは本当のことが映ってしまうという通り、テレビ局が思い込んだスタイルに無理矢理演出で盛り上げていることが見え見えに映っておかしい。
 よりよい素材が手に入るようであれば、そっちを使うこともあるし、どうしてもそれが好きで使い続けていた素材が無くなることになれば何か手を考えなければいけない。やめてしまうか、これまで愛用した物に匹敵する物を探すか。それとも工夫でどうにかするか。次善のものしか手に入らなくなっても、最高の味に仕上げる創意工夫が名人上手でしょう。
 こだわるということは、必ずしもいいことではないのだけれど、テレビがその言葉を使うようになってしまってこの言葉自体が腐り始めたので、耳にしたくない言葉になった。客に対して傍若無人な態度を、こだわりといって喜ぶのは、昔からあったが、たいていハッタリである。客もいけない。
 だから、蕎麦・うどんの達人たち、その他さまざまなその道数十年というような職人さんのところで話を聞くたびに、こだわっているなんて言葉を使わないことがとてもうれしい。新しい道具、よりよい素材が見つかればどんどんそっちを利用して来たからこその伝統仕事なのである。手仕事は毎日のことだから工夫し続けるのが当り前で、こだわってそこに止まっているわけではない。また、手仕事なのだから微妙な揺れがあるのは当然で、それでなお、客が金を払うに値する物を提供してくれることがプロだと思う。
 というようなことを蕎麦とうどんで思ったものだ。

 土地の味
 水がいい。土地の蕎麦粉を使っている。小麦もできるだけ国産を使っている。ポストハーベスト薬品などの心配がない、自然の蕎麦を打っています。ただそれだけです。
 そういう、地元の老舗。食べると、蕎麦は旨い。
 ところがつゆが甘いのだ。私がしょっぱい・濃いつゆが好きだと初めに書いたのは、そうした日本各地の甘いつゆにヘキエキしているからである。
 「お前なんか」の口に合わせて蕎麦を出しているわけではなく、地元で毎日食べてくれる人に合せて作ってある。それでいいんです。それでいいけど、私は困るというだけ。
 蕎麦つゆに、蕎麦をダップリ浸けてもだらしない味しかしないようなのは蕎麦つゆとはいえんでしょう(どうして私はこんなに厭やな奴になったなんだろう)。私は粋がっているわけではない。私の意見の理不尽さはわかっているが、蕎麦そのものに力を使い果たし、つゆの吟味を明らかにおろそかにしている蕎麦屋も多い。
 このことだけは断言できる。
 ざるももりも同じつゆ、これがもう間違っているけれど、それは許そう。
 でも、ネタ物の、卵とじは少し甘くなってしまうので少し調節して欲しいというように、もう少しつゆに気配りして欲しい。そんなことで、つゆに対する期待は、まずかなえられることがない。勝手過ぎるか?
 それと個性を出そう、新機軸を打ち出そうとしてカタカナの工夫を蕎麦やうどんに持ち込んで失敗している例が多い。
 もう一つ困るのは、手打ちの「気分が出過ぎ」た太さのバラバラな蕎麦。それは蕎麦掻きから、蕎麦切りへの進化の途中で止まっている蕎麦ですよ。山形に行ったとき蕎麦を多く食べたが、この太さの揃わない蕎麦が多く出てきた。
 これ、均一に茹で上らないでしょうに。細いのはペチペチョ、太いのはモソモソ。これは私は納得しない。これを手打ちの味わいとは思わない。
 おばあちゃん手づくりの、切り込みとか何とかで、山梨の「ほうとう」系の煮込み蕎麦なら、それはそれでうれしいが、「もり一枚」の蕎麦が太い・細いまちまちで、しかもつゆが甘いとくりゃ、食欲を失う私である。
 それでも、旅では食べておかなければいけないので、食べますがね。
 
 地元の蕎麦の香りを楽しんでもらいたいので、やや太打ちにしています。上品じゃないけれど、内臓と頭を取った煮干しと、昆布でとった濃いめのだし、これに地元に古くからある醤油とザラメで味つけしています。山葵は裏の山から、葱は蕎麦の畑の横に作った畑から、というような蕎麦、これは、泣きながら食べるでしょうに。蕎麦というのは「そのていど」の、すばらしい食べ物だと思うけれどね。そういう店に当たると、つい食べ過ぎる私である。
 そう、蕎麦の香りとはいうが、蕎麦というのはそうそう香りの強い食べ物ではないような気がしている。いかが?

 どうか、全国の蕎麦屋さん、うどん屋さん、蕎麦の吟味と同様につゆにも心を砕いて欲しい。蕎麦とつゆ、これは一緒においしくなければいけないものです。ついでに言っておきますが、薬味にも充分を気配りを。
 日本各地の蕎麦屋で「乾燥葱と表面の色が変わった粉山葵」を出しているところ、ないとは言わせませんゼ。





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