東西南僕 06 石巻
2002年07月02日(火)
 石巻の巻

 石巻に着いてから、芭蕉が『おくのほそ道』の途中でこの地を訪れていることを知った。そこで、改めて読み直してみると、芭蕉と曾良は、本来この町に寄るつもりはなかったことがわかる。

 …平和泉(ひらいずみ)と心ざし(中略)終に路ふみたがえて石の巻といふ湊に出…だから、道に迷って石巻に出てしまっただけなのだ。あはは。
 …数百の廻船入江につどひ、人家地をあらそひて竈の煙立ちつゞけたり…である。
 そこが、思いがけなく繁栄している町なのでそのことを書いている。それで、石巻が非常に重要な港町だったことや、いかに栄えていたかがよくわかる。あげく、芭蕉はその夜泊まるところが見つからなくて苦労するのだ。そういう話は地元の観光案内のパンフレットには引用しないことになっている。

 曾良日記には、日和山(ひよりやま)という山にのぼれば、石巻が一望できると書いているので、まずそこに行ってみた。
 日和山という丘の名前で、私は酒田にある日和山のことを思い出していた。港近くの小高い丘や山には「日和」か「日和見」という名が付いていて、昔はそこからその日の日和、まぁ海の天候、を見たに違いない。石巻の日和山は公園になっていて、ここを訪れた文人墨客の俳句や歌の碑がいくつもあり、文学の散歩道にしてある。
 これが、わからない。
 酒田の日和山公園も全く同じ。尾道の文学の散歩道などもほとんど同じである。旅で行った者にとって、近年整備された公園の随所に配置された石碑の俳句や歌は、それほど面白いものではない。これが、南に行けば、万葉集にある歌を石に彫ってあることが多い。
 観光地の石碑に彫られた俳句や歌を見て、ああ彼の詩人がここでそういう感慨に打たれたのか、と、こちらもしばらく佇むという気持になるようなものは、ほとんど無い。基本的に「観光俳句・観光短歌」に名句、名歌が残されていないということもあるし、やっかいなことに、石に彫った文字が「達筆」過ぎて読めないのだ、私には。
 石碑の中に、久しぶりに「釈迢空」の名前を見つけた。子供の頃この名前が読めなかったことと、そうとは知らず一時折口信夫を夢中になって読んでいたことを思い出した。そ、私、民俗学に傾いていたんですよ。

 日和山はその下を流れる北上川が海に注ぐところが全て見渡せる位置にある。丘の上から、市場はあそこで、夜は街のあっちにいけばいいなと見当がつけられる。じっと観察すると、今の港は、埋め立てて整備した場所で、古くはもっと陸側に港があったこともわかる。現在の港付近は町並みが整い過ぎている。川には、中洲があって、地名は中瀬(なかぜ)だが、カメラマンと私はマンハッタン島と呼び始めた。この島には公園があり、映画館もある。この映画館は昔の芝居小屋そのままで、舞台や花道もあるということで取材の対象にもしていたが、封切り映画の上映中だったこともあり、他にも取材対象が多過ぎたこともあっていかずじまいになってしまった。壊される前に、きちんと記録しておくといいのにな、とは思った。

 石巻の港から…
 早朝五時四十分に、マイナス五度の石巻水産物地方卸売市場にいた。
 「いちば」ではなく「しじょう」、プロの世界である。まず、ここは見に行く楽しみの多い港だということを発見した。魚種が濃い(私の勝手な表現です)のだ。水揚げされる魚の種類が非常に多い。これが面白い。それだけでうれしくなってしまった。
 その朝は、ケガニ、ニシン、タラ、ヤリイカ、コイカ、ヒラメ、カレイ、アカガレイ、アカガイ、メヒカリ、アンコウ、キチジ、タコ、タチウオ、サバ、サメその他、おやあれも、これもと、口に出るほど色々いる。それでも二月は一番市場のやせている時期だ、と教えてもらった。にもかかわらず非常に多くの魚の顔を見ることができた。その水揚げされた物の、半分以上が仙台や石巻で消費されるというから、これまた楽しみな町である。
 この町には、造り酒屋が四軒ある。
 これ、条件が良過ぎる。

 久しぶりに早朝の市場にいて、やはり少し興奮していた。朝の市場は、そこにいる魚の顔を見ているだけで充分面白い。その上で、ここは種類が多い。
 鮮度のいい魚をできるだけ早く「商品にして」この市場から運び出さなければいけないという思いが、その場の全員にあるからだろう、興奮してもいるが、少し焦っている感じもある。殺気立っているというほどではない。
 あまり寒いので火にあたりながら「競り」を待っている人が多い。コンクリートの上からコイカを拾って来てその火であぶって食べているおじさんもいる。市場に残った小魚を食べるカモメより先に、人間の方がご馳走にありついているという次第。
 マイナス五度は、魚の周りに集めてある氷が解けない寒さで、私にも充分こたえた。
 鰓の真っ赤な、非常に新鮮なニシンを見た。初めてニシンという魚を美しいと思った。ほとんど今息を引き取ったという新鮮さ。地元では「ニシンは刺身しか考えられない」と言った。え! と思ったが、目の前のニシンの姿を見れば、ああこりゃ刺身ですね、と思う。ニシンの刺身を、私は食べたことがない。競りと入札の両方が行われ、徐々に市場から魚と人が消えていく。
 トラック一台という単位で入札が行われていたサバに値段がついて、一台一台とトラックが出ていく。駐車していた場所が空いて、人の時間が終われば、とたんにそこにカモメが殺到して、コンクリートの床に残った海の幸は鳥の胃袋に納まってしまう。
 網で数える場合もあるし、船の数で言う場合もあるが「日に、四〇〇〜五〇〇艘の船が入る」という石巻。小型の船で一回漁をしたらそれでいっぱいになって帰ってくる船もあれば、何度か漁をして船倉に魚を何種類か持ち帰る中型の船もいるということだ。その総数として数える時に、網の数だったり、船の数だったりという次第。
 海に出れば南へ行くことも北へ行くこともできる。かなり広範囲の漁獲がこの港に入ってくるのだ。とにかくこの朝は、タチウオとケガニが同じコンクリートの床にいるのを見て、感心していた。感心というより、混乱していたといった方がいい。この二つが一緒にいる風景に出会ったことがないような気がしたからである。
 七月頃、カツオの時期に来れば面白いと教えてくれた。

 テレビ番組では、市場の中の食堂で「低級グルメ」をやって、大騒ぎするところだが、私はいたって冷静である。毎日魚に接して、食べようと思えば新鮮な魚をいくらでも食べられる市場の人達が、朝の仕事のあとで空腹を満たす食堂では、カレーやチャーハンが人気だったりする。基本的に市場の外のお客さんを考えていないから、それが当り前。
 もちろん、新鮮で、安くて、量もたっぷりの刺身定食もある。それは私のような、外部の人間が喜ぶ市場の食堂らしさである。朝の市場の食道で、ご飯を食べるのは本当に楽しく、おいしい。港町に取材に行ったら、間の日に確かめておいて絶対に行ってみるべきである。
 確かめるのは、開店時間。外部の人間が入ってもいいかどうか。この二点。

 魚に関してはうまい物を食いつけている人達の食事だから、何でもないカレーやチャーハンが実はかなりうまい。港で刺身定食、は、基本だけれど時々はずして「チキンライス」もいい。
 妙にはずれた時間に行くと、わけのわからんベタベタのカップルがいたり、カツカレーの「カツ」でビールを飲んで、その後カレーを食べていい気持そうに出ていくおじさんがいたりで、市場の食堂は風景として悪くない。どう見ても旅の途中らしい服装で、朝の市場の食堂のザワザワの中、ヒッツイテ飯を食っているカップルというのは、わからないですよ、どうしたって。

 私自身の、酒を中心に据えた旅だったら、市場でそばにいるおじさんに、「夜の」お薦めの店を聞いてしまうところだ。「夜、飲むのにいい店を教えてもらえませんか?」と言えばいい。朝ここで揚がった魚が食べられ店です、と言えば、こっちの目的がはっきり伝わってなおいい。
 午前十時頃になると、市場は何事もなかったように冷たいコンクリートの世界に戻ってしまう。
 カモメもいなくなる。
 早朝の市場に足を運ばずに、陽が高くなってから「ここが市場です」と案内されても、にぎわいの名残りも何も全く残っていない。ガランとしたコンクリートの平原を見ても、市場の面白さはわからない。市場というのはそれほど表情が変わる場所なのである。

 石巻は、仙台から仙石線で一時間ほど。途中に松島があるし、特別観光する場所もない石巻なので、案外旅人の行きにくい町かも知れないが、私はお薦めする。
 ただし、半日町を歩き回って、港町を楽しめるような人でないと辛いだろう。市場を見れば、あとは見るべき物がない。冷たい言いようであるが、本当だ。漁に出る船の船員達のためのあれこれを売っている店、漁具を揃えてある店などを覗いて楽しむ心がないと、淋しい。

 観光案内では、サン・ファン・バウティスタ号を紹介するだろう。この船名だけで「あ!」と思い出せる人はそうはいないかな。支倉常長が伊達政宗の命を受けてバチカンまで行ったが、その時に乗った船である。
 船は、さすがに偉容を誇るといった物で、当時の造船技術の高さを示しているし、そうかこのぐらいの船でなければとてもいけないよなと思わせる。船内の暮らしぶりを紹介した絵に、七厘に釜を乗せて米を炊いているというのがあった。ローマに向かう旅、というイメージから「七厘でおマンマを炊く」という風景を考えもしなかったので、当時としてはそれが当然のはずなのに、奇妙に感激してしまった。
  「慶長遣欧使節」が実際出帆した入り江、月の浦も石巻から三〇分ほどの所にある。そこにも行って見たが、徹底して何もない。それでいいのだ、仰々しい記念碑などを作ると費用が無駄になる。ここから船が出たという入り江に立つと、今だって「ここからローマは遠い」という実感を持つばかりである。当時は太平洋を横切って、パナマ運河はまだないから歩いて向こう側に出て、そこからまた船で、ヨーロッパ大陸へ。遠かった。

 石巻は牡蠣の最盛期だったが、朝の市場にはその姿がなかった。牡蠣は、石巻湾漁業協同組合の産業になっていて、湾内で育て、それを組合の人達で剥き、出荷するということになっている。牡蠣を剥いているところを見せてもらったが、三〇人ぐらいの人が並んで口もきかずにひたすら牡蠣をむき続けていた。そういう場所が何か所もある。
 牡蠣の匂いが濃密にたちこめる剥き場では、クリクリ・コワコワ・ポチャという小さな音が続くばかりで、横に並んだ人同士の会話もない。みごとに不気味である。
 牡蠣の殻に剥き道具を差し込んで貝を開く音が「クリクリ」。殻と刃物が当る音。
 開いた牡蠣殻の中の身を片側に寄せて貝柱を切り離す「コワコワ」。貝の内側と刃物がこすれる音。
 殻から離れた牡蠣を水の入ったバケツに放り込む「ポチャ」である。
 一人一日に数十kg剥くといっていた。
 港の、寒々しい牡蠣剥き場風景と、その生食用の牡蠣が食べられる妙に洒落た風景が掛け離れずぎているような気がした。
 食べ物というのは往々にしてこういうことがある。港の雑踏と華やかなレストランの食卓は、物理的にというより、観念的になかなか遠いのだ。
 分厚く着込んでゴム手袋をしたおじさん・おばさん達の沈黙の行と、シャブリに牡蠣だなんていっているコナマイキな若い奴との「果てしない」距離は、どうしたって観念的な距離で、非常に遠い。そのコナマイキナ若い奴がまた、その港町出身だったりするのだから、観念的にコンガラカルのである。

 観光する物は何も無いと書いたが、石巻文化センターがあった。石巻の歴史がわかる展示は「珍しく」楽しめるものだった。芭蕉が書いたように非常ににぎわった湊であることが多くの文書になって残っている。船に乗ってやって来たよそ者が毎晩のようにけんかしてひどいものだ、というのがいかにも栄えた湊らしい。そういう歴史も面白かったが、地元の、すでに故人になった彫刻家の常設展示が素晴らしかった。
 戦争時代に、南方の島で亡くなった人だそうだが、亡くなるまでに創作した作品が目を見張るほど素晴らしかった。一緒に行ったカメラマンと二人で、感激してしまった。大小の彫刻作品の前に立つと、ジワジワと心の中に熱いものが満ちてくるような作品ばかりだった。見とれてしまった。呆然、である。
 もう戦争に負けかけている頃、南方に向かう船の中で、小さな彫刻刀一本で彫った不動明王が最後の作品になってしまったとあり、その、手のひらにのる不動明王が展示してあったが、どういう思いでそれを彫り続けたのかを考えるだけで、息苦しくなってしまった。拾った流木から不動明王を彫り出そうとする、それも戦場に向かう船の中で、である。
 その気持がつらい。つらかった。しばらくその前から動くことができなかった。実に単純に、こんな人がいたのか! と感嘆した。個々の作品の前から動き難いぐらいに、引きつける力が強い。
 この展示は、価値がある。
 こういう才能が無為に消えてしまうということだけでも、戦争はまずい。いかにもまずい。心が痛んだ。

 この町で、私はかまぼこ屋に取材に行くことになっていた。評判のかまぼこ屋だというが、石巻に着いた夜から、この辺でかまぼこといえばどの店ですか、と聞けば、必ず「その店」の名前が出てくるという店だった。
 約束の午前十時にいくと、もう非常に混雑している。その日その日に焼く量が決まっていて夕方には売り切れるそうで、お土産、進物、自家用に、その日かまぼこが必要な人がどっと詰めかけるのだった。
 社長に話を聞いた。かまぼこ屋、三代目である。
 この店では、キチジ(キンキという赤い魚だ)を素材にして笹かまぼこを作っている。元来、かまぼこは、その港に大量に揚がり安く手に入る魚を加工するというのが始まり。だから地方ごと港ごとに素材が違うものだそうだ。仙台の笹かまぼこは、元はヒラメを素材にして始まっているし、石巻はキチジを使うのが基本だった。
 この魚は脂肪分が多いので、かまぼこにするのに手間だが、この店では「石巻はキチジ」ということでそれを守り続けているという次第。社長は「こだわる」という言葉を一度も使わなかったので、心地よかった。
 魚の骨と内蔵と皮を除いて、身をよく練って塩を加え、熱を加えると動物蛋白が固まるということである。かまぼこは、こうした単純な物だけに、素材と真面目な製法が結局物を言うことになる。買った魚の重さを「一〇」とすれば、頭と内蔵と骨を除いてかまぼこの材料にした時「二」しか残っていないという。これが、良質のかまぼこの高くなる理由だ。小さな笹かまぼこ一枚でも、四〜五匹分の身が使われているというのである。
 ということで、どこで聞いてもこの手の話は同じ。真面目に「昔ながら」をやり通せば、旨い。旨いが高い。高くても旨くて質が良ければ売れる時代。

 キチジの脂肪分は身を晒して脂肪を抜き、旨みが消えないぎりぎりのところですり身にするということでやっているそうだ。脂肪分が多いと、混ぜた塩がうまく溶けない。そのキチジも、季節によって成長の度合いが微妙に違うし、大半は輸入なので獲れた海域の違いからくる身の性格の違いがあって、それぞれにどう加減するかは職人の判断によるという。キチジの赤い色は、甲殻類をえさにしているせいで、あの殻の色が出るのだそうだ。
 今の石巻付近の海は、その甲殻類が少なくなってしまって、獲れてもキチジの色が昔のようには赤くないといっていた。私はこういう話が好きなのだ。甲殻類をたくさん食べているキチジはうまいし、色もいいということになる。鯛もそうだという、いい色の鯛は「海老」なんかをたくさん食べているという意味である。

 私が、かまぼこに関して前から用意していたのはたったひとつの重要な質問。買ったかまぼこは、食べる時点では冷えてしまっているが、作る時にどの時点で「おいしい」ことを目標にしているか、そういう想定はしているのかどうか、を聞いた。
 社長の答えは、明快であった。冷えたかまぼこが次の日に食べられると想定して、その時おいしいように塩梅していると言った。
 正確には「次の日の夕方」だ。もちろん、焼きたてがうまいことは言うまでもないし、もう一度軽く焼き直しても暖かくおいしく食べられるが、そういうことを一切しないで、ただかぶりつくとして、どの時点でおいしくあるべきかをきちんと考えているということが興味深かった。
 うどんは「こし」だが、かまぼこは「あし」、いわゆるクニュクニュの加減。つや、味わい、香り、焼き加減などが「判断基準」になるという。
 かまぼこは、昔に比べれば、非常に柔らかくなっているのだそうだ。現社長の祖父の時代に目指したかまぼこの堅さは、あわびの刺身の硬さ! で、食いちぎる・噛み締めるといったものだったそうだ。あわびの刺身の硬さは、かなり硬いですよ。
 今はまず、母親と子供に「このかまぼこおいしいね」という評価をもらわないと、売れない。ということで、物を噛まなくなった子供たちに「噛む面倒をかけない」硬さを心がける。このことと、かまぼこの「あし」のバランスが難しいわけだ。
 これ、すごい話である。三代にわたってかまぼこを作り続けてきて、この変化。伝統というものが、実は時代とともにあるということがよくわかる。止まったら、死。
 つやはやはり素材の良さ、焼き加減の程よさなどから生れるらしい。香りは、魚を上手に焼いたおいしい香りでなければいけない。新鮮な魚を焼いているのだから、そうなるわけだ。生臭いなどは、論外。焼き加減も表面だけが焼け過ぎて、皮と中身が離れるようではかまぼことしては下の内だ。塩以外に加える物も極力入れない方向に向かっているが、今は入れても昔の十分の一程度だという。
 板の上に乗せて蒸すかまぼこと違って、笹かまぼこは串に刺して縦にしたままで焼く。縦にして形が崩れない硬さの原料ということも他にはないことだが、かまぼこの表面に指を当てたような凹凸を作り、熱がかまぼこの表面を万遍なく上っていくように気を配っていると言った。打ち出し鍋の底と同じで、凸凹があると熱がその表面を這うようにして上り、均等に、しかも無駄なく廻るということらしい。笹かまぼこの表面の凹凸にそういう意味があったのだ。
 中身の薄い私は、こういう話を聞くとすっかりかまぼこにうるさくなった風に、友人相手に得々とそうした話をする癖がある。

 その店の社長は、毎月一度は石巻じゅうのかまぼこを買って、職人とともに食べて見るし、分析器にかけて素材が何か、どういう物を加えているかを調べているとも言った。蛋白質の性質が魚によって違うので、分析すれば材料に何を使っているかもわかるということだ。
 「もちろん、うちのかまぼこも他の店で分析されているわけですよ」と社長は言う。かまぼこに手を加えた商品の種類を増やさない。職人が目を配ることのできる量しか作らない。宅配はやっているが、多くの店舗で売ることをできるだけ避けて、品質管理できる範囲にしている。確かにこれが、今、うまい物を創り続け、売り続ける最上の方法だろう。
 話を聞きながら、焼きたてのかまぼこを食べさせてもらったが、これまで私が食べていた「笹かま」は何だ? というほど素晴らしい味わいだった。素晴らしい経験だったが、これからが困る。そういうおいしいかまぼこをいつも食べられるわけではないのだ。とても高いので、しょっちゅう で注文というわけにもいかない。

 もう一軒行くようにいわれていたのは、たらこ製造会社であった。
 石巻は、たらこ生産日本一の町でもあった。なんとなく「たらこ」は北海道だという気がしてしまうのだけれど、今はたらこの素材を輸入するのだからどこでもかまわないことになる。
 このたらこの会社の社長も、結局素材を選んでちゃんと作ることしかないと言った。なにしろ素材に最高級のたらこを使う。
 「生たらこ」の周りの血管をていねいに取り除き、塩漬けにする。これが、大体一日半で漬かるそうだ。塩の結晶の角でたらこの袋に傷がつくのを避けるために、ある方法で塩の角を落としてから使うとも言う。へぇ、そこまで扱いに注意がいるとは想像もしなかった。
 塩漬けにしたたらこを機械で定期的にかき回すという楽な手を考えて一旦は機械化したが、駄目。その方法でもたらこはできるのだが、個々のたらこの大きさ、たらこを包むあの皮の厚さの違い、それにたらこの成長の度合いの微妙な違いで、塩の回り方がまちまちになってしまうことがわかった。
 そこで機械化を、やめてしまった。
  手作業で、たらこの漬かり具合を見ながらやることにした。そうしたら、全国的に評判になっていったのだという。話を聞いてみれば、それだけである。この「それだけ」がおいそれとはできないのだ。
 話の中で、ソ連の時から駄目だったけれど、ロシアになってもあの国は駄目だと繰り返していた。商売の相手に、良い「たらこ」というのはこういう物と説明し、その品質の物を揃えてくれるなら高くても買うと言っても、一切おかまいなし。相も変わらず、ただドッとたらこを運んで来るだけ。その中から選ぶ作業も面倒だが、無駄の多いのにも閉口している。カナダや、アメリカには、すでに「たらこづくり」にはどういうたらこが向いているか充分伝えてあって、先方も承知しているので、ほとんど間違いのない素材が届くのだそうだ。それにひきかえロシアは、ということになる。
 「たらこ」は苦みがあったり、生臭いのはやはり論外だそうだ。訪ねた会社のたらこは、良質の魚卵を適度な塩味で食べている、というたらこだった。ほのかに甘さを感じたのは、卵の甘さか。この会社のたらこは、塩漬けだけでなく、味噌漬けもあった。仙台味噌と西京味噌を合わせて漬けるといっていたから、その味噌の甘さを感じたのかも知れない。ただし、塩だけで漬け込んだものも、甘い感じを受けた。
 社長自身はどう食べるのが一番だと思っているか聞くと、生でほんの一滴しょうゆを垂らすと言っていた。

  港町に行けば、新鮮な魚の話になるのが普通だが、わざわざ港町を訪ねて、水産加工品の作り手を訪ねたのは面白かった。結局、良質の素材を選ぶ、昔から「こうした方がいい」とされている方法で作る。これになってしまうのである。
 もちろん、社長たちは「一番」であり続けるために、必死に工夫を加えるのだけれど、時代に対応した新しい技術や味はあるだろうが、伝統食品の場合は特に作り方の新しさは、早急に求めない方がいいようだ。
 こうした「素材」に寄りかかる加工品の話は、何度聞いても面白い。それと、直接商品の質に影響しないような「ただの作業」を機械化することは可能でも、職人の感覚・経験がものを言う段階を機械化するのはどこでもうまくいかない。それが、一番好きな話である。
 たらこ屋の社長が理論的に説明できなかったことだが、たらこを塩漬けにすると塩を吸ったり吐いたりするというのだ。最初水分を吐き出して塩を吸い込んでおいて、あとで逆の作用が起こるのか、そのことはきちんと説明できることではなく、ある感覚、あるいは勘の領域なのかも知れない。それにしても、ちゃんと作ったたらこは旨い。本当に旨い。

 かまぼことたらこの他に、石巻には「ゆべし」で名を知られた店があった。「ゆべし」は、柚餅子と書くぐらいで、もち米の粉に味つけをして、それこそ名前通りに柚子の皮を切り込んだりして作る素朴なお菓子である。まったく素朴なのだが、その店のがおいしいということで取材に行った。その店のゆべしは「胡桃ゆべし」で、胡桃がたっぷり入っている。小さな包みから出して姿を見ると、砂糖の他にかすかに味噌も入っているので、全体茶色の餅であちこちから胡桃が顔を出している。美しくない。これがそんなにうまいのかね、というのが印象。
 で、これを食べると、しみじみ旨い。餅を噛む感触のジナジナしたところもいい。
 餅を噛むのに邪魔になるほどたっぷり入った胡桃が香ばしく、餅の堅さといい味つけの具合といい、抜群だ。さっそくそれを撮影しようとしていると、お客さんが来る。二間間口の店に、前の客がいなくなると次の人が来るといった程度に入ってくる。ここのゆべしでなければいけない、と不便なところにもかかわらず車でやってくるのだ。
 主人は、ちゃんと和菓子屋ですから他の菓子もできるんですが、お客さんがこればっかり買いに来るので、こればっかり作っていますとぼやく。ガラスケースをどうにかにぎやかに見えるようにレイアウトしてはいるが、実は、胡桃ゆべしだけ。十個入り、十五個入りというように箱の大きさが色々あるのを並べて見せるしか手がないようだ。すっかりゆべしの店になっている。
  聞くと、胡桃はカリフォルニアの胡桃だという。日本では現在、胡桃を「栽培」しているところはないと聞いて驚いた。もちろん胡桃はあるが、食用としてある量を安定して供給するために、胡桃の木を植えて商売にしているところはないということだった。またひとつものを覚えた。

 芭蕉は『おくのほそ道』がのちの人に影響を及ぼすとしたら、俳句に関したことで影響を与えたかったのだと思う。あの一冊に、俳句の何たるかを書いてあるわけではないが、あれほどの旅をして俳句を求め続けた姿を感じ取って欲しい、それぐらいの気持はあったと思う。
 しかしですよ、『おくのほそ道』は今、観光の目玉に利用されている。俳句そのものは観光地のキャッチフレーズである。迷って寄ってしまった石巻でも、芭蕉が来た町だ、曾良が上った丘だという。
 前に山形で『おくのほそ道』をたどる取材をした時には、芭蕉はここから船に乗ったに「違いない」、五月雨を…の句はこの辺でできたに「違いない」、と堂々と言うわけだ。そして、そこここに芭蕉と曾良の像が建ててある。そうした、不確かな『おくのほそ道』関連の作り物だけを探り歩くもの面白いかも知れない。
 どこそこの家に半月も逗留していたというのだから、この地方では名刹とされるこの寺にお参りに来たことは想像に難くないなどと、平気で書いていることもある。こういうのは、ありでしょうかね? 芭蕉が通った以外何も呼び物がない最上川のほとりなどいくら呼びかけても「観光客」は歩いてみることをしない。
 私のようなのは、ここは昔のままですよという風景の中に立つと、芭蕉と曾良がここを歩いたとすれば何を思っていたんだろう、二人はどういう会話をしていたんだろう、というだけで充分面白がれるのだが。
 芭蕉には悪いが『おくのほそ道』は、確かに使い道がある。
 雑誌の取材というのは、あらかじめ編集部の人間がこんな風にしたいという「編集部が考える構成」がある。(私が)取材に行く意味と意欲を半減させる、あらかじめの構成があって、そこにはめ込むといった「作業」が多いものなのだ。そうした時に、彼らの好きな「歴史から入る」文章に、『おくのほそ道』は持って来いなのである。
 江戸を出て何日目どこそこの町に着いた芭蕉はとか、まず、俳句を出しておいて…と芭蕉が詠んだのはここであるとか、曾良日記によればとか、私は好きじゃないスタイルだけれど、注文に応じて書く記事職人としては、注文主のお望み通りをやらなければいけないことがある。そういう時に、たいていの大人が知っている『おくのほそ道』は、すこぶる便利である。
 ちょっともっともらしく見える。書き手が少しは「知識があるような」感じにもなる。ということで読み手が安心する。日本中、歴史のない所はないのだからどこでもこの手は使える。
 私も、スレてきた。
 スレてくると旅はますます面白くなって、癖になる。




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