東西南僕 22 続古牧温泉渋沢公園
2004年12月18日(土)
 青森県三沢市、古牧(こまき)温泉渋沢公園の続き

 まだ書くことがあるのが、すごい。
 実は、冬が来るのを待っていた。

 ええ、秘書室長の沼田さんとあれこれ話しながら「私は」飲みました。

 沼田さんは秘書室長、ホテルの中のすべてに、途切れることなく目配り、気配りしていた。
 社員の目の届かないところでお客さんがちょっと困った様子をしているだけで、サッと近づいて笑顔で対応する。巨大施設なので、風呂に行きたい、食堂に行きたいと迷う。風呂がいくつもあるのだから、一回で把握できない。そうして立ち迷っている人に沼田さんがにこやかに寄っていく。
 そのあとで最寄りの社員に、お客さまへの目配りをきちんとするように注意している。同時に、全体を見回して、お客さんへの注意が行き届いているかどうか、社員がいる位置が的確かどうかなども考えている様子。料理にも、酒にも、空間のありようにも、館内放送の音の大きさにも、とにかくすべてに気を配っているので、私と一緒に酔うわけにはいかない。
 客商売の責任を全うするというのはこういうことだと思う。
 私は、インチキバーテンの経験しかないが、人生の先達に教えられたことは、客商売「客に、すみませんといわせないことだ」と教わった。わかりますかね、客が店員や社員に「すみません」といって、ものを頼むようなことをさせないように気配りしろということです。
 それの見本のような沼田さん。そうした酔うわけにはいかない沼田さんを前にして、私はジリジリ酔いました。はい。そういう奴なんです私は。
 特別凝った酒を選んではいないけれど、青森の酒を味わえる選択はしていました。ホテルの中の居酒屋であって酒の専門店ではないから、たくさん揃えて客を待つというわけにもいかないだろう。
 私は飲んで食べて、寝ました。

 さて、次の朝。心地よく目覚め、なにしろ最上階からの眺めを楽しんでおこうと思って、カーテンを開けにかかりました。これが重厚なカーテンではあるが、いくらなんでも私の力で開かないわけがないと力を入れたが開かない。思いをめぐらしている内に、こんなに力を入れて開ける必要があるのはおかしいと思いましたよ。
 「この国でもっともやんごとない方々」がご宿泊なさった部屋なんですからね。
 ぐるり部屋を見回して、発見しましたスイッチ。電動カーテンでした。押すと、非常に静かに静かに立派で重厚なカーテンが開いていく。全面開けました。
 うわぁ!
 眼下には池があり、岡本太郎記念公園があり、結婚式場のチャペルがある。池は、夏に祭りを催す池であり、大きさも充分。そこに氷が張りうっすら雪も積もっている。雪が遠くの山々を覆っていて、池の中央部の水が黒々見え、周辺に朝日が雪にはね返って光っているところがある。
 あ、こりゃいいや! この風景には、しばし感嘆した。
 窓を開けて冬の大気に当たっていい気分。のんびりした旅なら、せっかくだから名残の朝風呂を楽しむところだけれど、私は汗かきなので、それが引くまで時間がかかる。それに悠々としてもいられない、仕事できているのだもの。着替えて食事。
 一旦戻って「飛ぶ鳥跡を濁さない」方式。こういう部屋に二度と泊まることはないだろうと、ちょっとの間部屋を眺め回して。降りていきました。
 
 冬の八甲田山、十和田湖を巡る予定だった。
 三沢に、公園を含むホテル「古牧温泉渋沢公園」を持っているだけでなく、奥入瀬渓流と十和田湖畔にもホテルがある。また、八甲田山の中腹、といっていいんだろう、そこには日本三大秘湯の一つ「谷地温泉」も営んでいる。
 こういうとき簡単に、日本三大秘湯の一つといって話を先に進める人がいるけれど、他の二つはどこか? と気になる私。一つは、トカラ列島鬼界ケ島の東温泉、もう一つは新潟と福島の境界にある飯豊(いいで)連峰の登山道の途中にある、湯の平温泉だという。これでイライラしないですむ。

 さて、三沢に本拠地があって、八甲田山に温泉を持ち、奥入瀬渓流と十和田湖畔にも施設を持っている。青森の右半分の、いいところを押さえているということになる。
 これで、一番初めの方(前回分)に書いた「ここを訪れば、青森の半分がわかる」という意味が理解できた。「南部」といってしまっては少し違うかも知れないけれど、古牧温泉渋沢公園に滞在してしっかり楽しめば、今の青森県の右半分の文化的なことと、観光に適したところ、そして歴史、これがわかるということなのだ。
 多角的に宿泊施設を経営しているというのは、泊まり客にはなかなか便利なもので、三沢と奥入瀬渓流、そして十和田、谷地温泉を会社のマイクロバスが繋いでくれている。だから、三沢のホテルに宿泊していて、秘湯の風呂にだけ浸かりたいという場合は、バスに乗って谷地温泉に出かけてゆったり湯に浸かって、夕方ホテルに戻ってくるということもできる。また、三沢に宿泊していて、奥入瀬渓流を見ているうちにそっちのホテルに泊まりたくなった場合でも、空いていれば移動ができるという具合(宿泊費などは確認はしてください)。
 また、谷地温泉で、昔風に湯治をしつつ数日過ごすとすれば、自炊の食料を買わなければいけない。そういう人のために、青森と温泉をマイクロバスで繋いで、買い物に行けるようにしてくれている。もちろん谷地温泉にも食堂はあるけれど、なんといっても湯治場の食堂なのでメニューの種類が限られる。湯治で蕎麦とうどんばかり食べて過ごすのも寂しい。

 そんな風に、ホテル所有の施設間の行き来ができるというので、なるほど、いくつもの宿泊施設を持っていることがこういう風に機能するのは面白と思ったものだ。その移動に使うマイクロバスの中で、観光ガイドがあるのだろう。

 冬の間は、三沢から青森県の中央部に向かい八甲田山を経由して弘前まで行こうとすると道が限られてしまう。除雪をしている道が一本で、それも吹雪の時は通れなくなる。
 私が行ったときは、基本的に道の両側が雪の壁になっていた。白い雪に三面覆われた道をクネクネと走ることになった。実は、これが素晴らしい風景なのである。
 雪の白い壁の上に青空。白い雲が過ぎていくかと思えば、さっと吹雪が襲ってくることもある。
強い吹雪の時は、運転に最大の注意。あまりにひどい吹雪になれば通行止め、雪道の途中にいる人が避難する場所も設けてある。そのあたりは、冬と雪を心得ている土地である。吹雪が続くようだと、仮泊することもでき、そこから連絡することができるようにしてある。
 なんといっても、あの「八甲田山雪中行軍」の場所である。
 その時、というのかあの時というべきか、雪の中に倒れた人々の慰霊碑、兵士の像を亡くなった場所に近いところに建てようという話が持ち上がったそうだ。ところが、その場所は現在国有地になっているとのことで、国有地にそういうものは建造させないといわれたという。あれは、時代は遠くなったけれど、国のためにやったことではなかったか。

 八甲田山は遠くから眺めると、なだらかな円錐形だったり台形だったりで、たいして高い山とは思わないが主峰の大岳は1585mもある。近づいていくと、雪の壁の上に山頂がぐいっと迫り、仰ぎ見るほどの高さを感じさせる。八甲田山は南側に下れば十和田湖、北に降りれば青森の港、西に弘前、東には三沢、八戸という配置になっている。
 白神産地は原生ブナ林だが、奥入瀬から八甲田周辺もブナ林が延々続き、十和田湖周辺の森は「十和田樹海」と呼ばれている。まぁ、原生林ではないがこれほどブナが生えそろっているのは珍しいそうだ。巨木と若木が適度に生えていて、そこに他の落葉樹も混じっている。雑木林であるのがいい。
 左右の雪の壁から、ブナの小枝が突きだしていて車にバシバシ当たる。その、雪からぴょんぴょん出ている枝を払うために役所の人が雪の中で仕事をしていた。冬の観光客に対しての心遣い、偉いなぁ。

 雪の積もった八甲田山の中腹に向かい、谷地温泉につながる道は、小牧温泉渋沢公園で除雪している。まぁ、自社の温泉までお客さんがいけるようにというわけだ。谷地という名前から想像していたように、周囲に湿地があって山の湿地の植物が群生するという。もちろん、それは夏の話しで、冬は枯れている。
 この谷地温泉はいい。宿の佇まいからして、なるほど秘湯という雰囲気十分。イヤ、秘湯なんだから当然か。
 ガイドブックで使う言葉を引用すると「開湯400年という歴史のある秘湯」である。源泉から湯を引くのではなく、自噴している場所に湯船を作り、その周囲を宿泊施設で覆ったと考えればいい。だから、湯船の底の小石の間からからジワジワと湯が沸き続けている。こういうところまで来てしまえば、混浴も当たり前のようなもの。ただ、外国風に水着で入るような風情ではない。
 この宿に「源氏の間」と名前の付いた部屋がある。なんと作家の瀬戸内寂聴がこの部屋に泊まり込んで「瀬戸内源氏物語」の第九巻、早蕨、宿木、東屋を執筆したそうだ。執筆中は、混浴を楽しんだとのこと。民宿風なこぎれいな部屋で、これがある棟が新館。湯治宿そのまま風なのが旧館である。雪を見ながら入れる露天風呂もできていた。
 
 八甲田山から南に向かい、十和田湖を見下ろせる瞰湖台という場所に立つ。
 冬の十和田湖を眼下にする。視野に冬の湖が入る、みごとだった。一人旅か、二人旅なら冬の十和田湖だ。
 カルデラ湖で、噴き出した鉱物の性質のために周辺が黒っぽく、光が押さえられた風景。あくまでも黒ではなく、どこまでも濃い灰色だ。徹底的に濃い灰色。湖岸の森も冬なので果てしなく黒に近い緑色。そこに雪が積もっている。白色に塗り込めるほどの雪ではなく、黒を主体にした墨絵。小さく見える遊覧船がゆったり湖を横切っていく。寒い。
 十和田湖は、約200万年前に始まった火山活動で噴火し、その火口に水がたまってできた湖である。そのあとしばらくして、先にできたカルデラ湖の中でもう一回噴火が起きて、湖の中にもう一つカルデラができた。その二度目の火口の縁が、湖に張り出している二つの半島になっているわけだ。湖に突き出ていて小さくても半島という。大きな方が御倉山のある御倉半島、細い方は中山半島といい、囲まれた水面が「中の湖〈うみ〉」だ。瞰湖台はこの中の湖の上にある感じで、半島と湖面に二回目の噴火のあとが読みとれる。こういうことを見てくる旅が私は好きだ。

 この十和田湖から流れ出るたった一本の川が奥入瀬。水の出口は子の口(ねのくち)というところ一箇所なのだと初めて知った。その流れに沢からいくつもの小さな流れが加わって「奥入瀬渓流」になる。子の口から焼山までの約14kmを奥入瀬渓流と呼ぶ。そして、冬の間はその子の口の流れを止めてある。にもかかわらず、木の下から少しずつ水が流れ出て奥入瀬は小川になっていた。
 雪に閉ざされてはいるが、奥入瀬渓流の木々は枝に雪を載せて立ち、次々に現れる滝は凍りつき、黒と白の世界に猛烈に明るい日が射してきたり、一瞬雪が通り過ぎていったりする。もちろん吹雪いてくれば真っ白の世界に埋もれてしまう。
 夏は、奥入瀬渓流の水と涼感を楽しみながら、約14kmのうちの好きな場所だけを自分の足で歩くことができる。飲み物とおやつを持ってのんびり歩き、緑に染まるのは悪くない。渓流の水飛沫がかかりそうなところに歩道が作られている。

 沼田さんは、私の取材用に十和田の街も案内してくれた。 市域は三本木原の洪積台地に広がる田園都市。道路が東西・南北に碁盤の目のように通っていて、いかにも近代になってから整備された街という感じで、清々しい。何もないところに計画的に開いた街で、そのために手を尽くしたのが、南部藩士新渡戸伝〈にとべつとう〉である。新渡戸稲造の祖父だ。

 この時は時間がなくて、行けなかったが三沢には「寺山修司記念館」がある。私は、若い時代に寺山修司にとり憑かれてしまってそのまま成長した。短歌、俳句、詩、演劇、映画、エッセイ、小説、写真、メルヘン、競馬にけんか、何をやっても寺山修司は常に「寺山修司的」であったし、天才だった。彼は昭和58年47歳という若さで死んでしまった。寺山修司の死の年齢を超えて生きるとは思いもよらなかった。

 この旅のように、取材目的でホテル周辺の見るべきものをじっくり案内してもらうのは、素晴らしい経験だった。いわゆる観光とはまた少し違って、ここはこういう意味で見ておく意味があるとか、歴史的には「正確にはわかっていない」けれど興味深いというようなことも話してもらえる。贅沢といえば贅沢な旅であった。
 お世話になったお礼ができないので、読んでくれる人に「青森に行くことになったら、小牧温泉渋沢公園を思い起こして欲しい」とだけは書いておくことにする。
 


 




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