東西南僕 09 江戸村
2002年07月31日(水)
 時代劇への旅

 NHKサービスセンターが発行している『ステラ』という週刊誌から来た仕事が、日光江戸村の取材だった。
 関東に住んでいる人なら「日光江戸村」という名前はたいてい知っているはず。時折りテレビで宣伝しているけれど、さてその実態を知っているかどうかということになると、知らない人の方が圧倒的だろう。私もそうだった。京都、太秦(うずまさ)の東映の撮影所の見学といった感じの所だろうと、私は思っていたのである。
 大人の男が行って、面白い場所だろうか? と正確に言えば、疑っていた。
 江戸時代が好きな私としては、江戸村は名前からしてそそられる場所だったが、内容がわからないままだった。
  仕事でそこを取材するということになったので、これ幸い(今はこういう場合、ラッキー! と言うんだろうが私はそうは言わない奴である)と、じっくり見て来てやろうということになった。

  初めて一緒に仕事をすることになったカメラマン氏は、ゲリラ風の顔つき・体つき。これが、話してみるととても好い人で、ほっとした。フリーで、色々な目に遭って人間がこなれている。向こうだって、初めてのライターと取材に行く戸惑いがあるとは思う。こっちも取材はこなしているので、相手に負担をかけるということはないはずである。
 編集部担当から「NHKの大河ドラマのロケの一部を日光江戸村でやったこともあり、また日光江戸村では番組放映中の一年間、季節ごとにそれに関連した企画をしているそうなので、江戸村の紹介と番組の紹介をからめて取り上げたい。またこの村には芝居をしている若い人が沢山いるので、その人々の日常も取り上げたい」という取材目的の説明があった。
 想像していた範囲のことである。それにしても、盛りだくさん。掲載ページに限りがあるし、与えられた文字数で、この全てを書くことは無理だと私は思って出かけた。

 注意。
 文章は小学校高学年の子供から、七〇才のお年寄りまで「読みやすく、わかりやすいように」書くこと、これがNHKスタイルだった。ワッ! である。私は、ややいじった文章が好きなのだが、そう言われれば、スパッとした文章も書けることをみせなければいけない。
 しかし、七〇才と小学校五年生を同時に読み手と想定して文章を書くというのは案外やっかい。それと、話を聞いた人からは、全員「姓も名もきちんと聞き、年齢も聞くこと」というNHKスタイルも、すごいなぁ、と思った。男でも女でも、年齢を言いたくない人がいる。すべてが私に任された取材であれば、その内容に必要ない限り、年齢は聞かない。最近は新聞ですら、個人インタビューの記事に年齢がないことが増えてきた。
 そういう思いがあったので、なるほどNHKスタイルというのがあるんだな、と面白がりながら仕事を始めることになった。教科書的に面白ければいいのだな、と私は思うのだった。

  一泊二日という取材時間をもらうことができた。
 東武線で、浅草を発って鬼怒川温泉駅へ。こちらの都合で切符を取るとか宿を決めるのではなく、渡された切符で行く、決められた宿に泊まる、という具合であった。初めてなのでNHKがいつもこうなのかどうかわからない。私は列車を利用する場合は禁煙車に決めているのだが、喫煙車だった。次回仕事が回ってくるような場合は、その辺をはっきり言わなければいけないと思ったものだ。
 初日には、説明を聞きながら日光江戸村全体を回って、写真を撮れるものは撮ってしまい、その夜と次の日の夕方までを使って「頼んで撮影しなければいけないような写真」を撮影しようと、カメラマンと決めた。こういう段取りは大切で、これまで仕事をこなしてきている同士だったので話はすぐにまとまった。「ここを撮りたい」と思ってもお客さんがいたり、芝居の邪魔になってしまうことが考えられるところでは、出演している人にも会社側にも断りを入れなければいけない。これは基本。それと、週刊誌の写真として、決まりポーズの写真も欲しくなることがある。そういう場合は、そのことをお願いしておかなければいけない。取材とはいってもズカズカなんでも撮ればいい、聞けばいいとはいかないのだ。
 
 駅からまっすぐ日光江戸村に向かう。
 本来なら入場券を買う窓口で、取材の件を伝えると事務所の方に回ってくれと言う。そっちに回り、ドアを開けて、ワッ!!
 いや、本当に驚いた。そして次の瞬間には、ふざけてるなぁ、と大喜びしてしまった。
 現代的なオフィスの中に、忍者、八丁堀与力・同心風から、矢絣を来たお城勤め風、はたまた町娘風がゾロゾロいて事務をしている。
 なんだこりゃ! 言葉にすればこうなる。
 裃は付けないまでも、侍の姿をした人や町娘の扮装をした人が真剣な顔をしてパソコンに向かってキーをたたき、電話している風景は、日本を誤解したままの外国の教科書そのものである。とても不思議な、異様な光景だった。個人的には好きなのだが。
 電子機器を操り、生活感は江戸時代のまま、これ、日本である。普通の入場者はこの風景を見ることはない。
 
  日光江戸村というのは大きな企業体の一部。「時代村」という施設を全国になん箇所か建設し、日本中で楽しんでもらおうとしている中の一つが日光江戸村だそうだ。で、とにかく、どうせ江戸村というなら、そこで事務仕事をしている人も含めてすっかり時代劇に染まってしまおうということで、制服として和服に着替えて仕事をしているという。
 繰り返していいますが、異様です。着物を来て、眼鏡をかけて、マウスを動かしている人が並んでいるんだから。

 この日光江戸村の村長は、会社組織では「専務取締役」の方だったが、名刺では「城代家老」である。あはは。取材の世話をしてくれた係長は「同心」であった。まいった。
 思わず、恥ずかしくないですか、と聞いてしまったが、恥ずかしくないわけがない。どうして私がこんな格好をしなければいけないのか、と城代家老氏も思ったそうだ。そりゃそうだ。でも、会社のユニフォームだと思えばいいわけで、と言う。流石である。
 ベビーバギーの貸し出し係が忍者の格好をしているので、子供に人気があるそうだ。そういうことでは確かに楽しいのだが、忍者がベビーバギーを持ってにこやかに応対している風景は、全体SF時代劇である。
 「ここはまぁ、ひとことで言えば江戸時代にどっぷり使ってもらおうという所ですね」と、城代家老氏の話を聞き始めた。それにしても、今風の応接室でテーブルに向かい、キンキラ錦の立派な着物を身につけた「家老」と話すのは全く妙な感じだった。
 「…日本人の精神的な基盤は、江戸の三百年間に作られたものだと思うんですね。平穏で、大きな戦争もない三百年というのは世界に類を見ないものです。その間に、人と人のよい関係も培われたのではないだろうかと思うんですが、それをここで『思い出して』もらおう、というのが変なら、体験してもらうというわけなんですよ」。 そういう意図で造られた施設、江戸村。
  撮影用の「表側ばかり」の町並みと思っている人も多いようだが、裏側まできちんとしている。
 
  関所(入口)を通ると、道は街道である。片側が雑木林で、この中にあまりにも懐かしい「鳴子」をぶら下げた綱が張ってある。忍んできた者が張りめぐらしてある縄に引っかかると鳴子が音を出して、「曲者」の侵入がわかるという仕掛け。昔の東映の時代劇にはよく出て来たものだ。とにかく思い入れは充分過ぎるのである。その街道を、少し歩くと宿場町に入る。
  その先ににぎやかな下町があって、さらに向こうは南町奉行所のある武家屋敷。忍者屋敷に向かう別れ道もある。限られた中に、江戸時代を楽しむのに「どうしても欲しい物」が凝縮してある。限られたとはいっても充分広いのでゆったり楽しめる。
 十三万五千坪。「五万坪」で東京ドームが7つ分ぐらいという計算になるそうである。要するに、広いということしかわからない(東京ドーム何個分という例えが、わからないのだもともと)。
 とにかく、それぐらいの敷地があるそうだ。その他に、この江戸村の背景になっている小高い丘も、そこに近代的な別荘でもできたら大変なことになるので所有しているそうである。江戸を作るのも大変だ。
 
 テレビや映画でお馴染みの、誰もが好きで、みんなの心にある江戸時代の「パーツ」がそこにちゃんと用意されている。江戸村は、基本的には文化文政時代の江戸らしくまとめてあると、案内の同心氏が教えてくれた。正確な時代考証をした建造物ではないが、江戸らしさを充分楽しむことができるように工夫が凝らされている。繰り返しておくが、あくまでも映画やテレビで愛されて来た時代劇の「江戸」の姿である。娯楽施設であって、研究施設ではない。
 だからこそ、そこにいてみたくなる、そういう仕掛けが機能しているわけだ。時代劇好きで、同時に正しい江戸を勉強し続けている私としては、ニタニタしてしまう。よくできているよなぁ、である。
 宿場町・下町のお店(おたな、と読んで欲しい)の人も、時代考証をきちんとした衣装とはいかないが、皆着物姿である。土産屋、食堂、記念写真屋、焼き鳥屋など皆着物姿。事務の人以外の「テナントの店員」三百人もみな着物姿ということで、徹底していて、感心してしまう。
 食べ物屋には、酒もある。メニューとは書かず、お品書きや、献立である。値段は「両」を単位としている。それが本当なら、非常に高いものだが、円を両に替えただけ。
 忍者姿の社員が、ちりとりを持って常時江戸村内を周り、掃除をして歩いている。
 どうしても、なんだかおかしい。おかしいけれど、楽しいのである。
 何かの拍子に時間移動してしまって、江戸の町に迷い込んだ現代人、という小説があるが、つまりそれを味わうことができる。
 
 村内にはいくつかの劇場、映画館がある。飛び出す映画で、入るとメガネが配られる。短編の時代劇だが、その「飛び出す」効果を見せるために作られた気配が強くて、画面奥からこっちに向けて矢を射るとか、槍を投げるとか「避けなければいけない感じ」の場面がひたすら続く。
 また、大遊廓劇場では吉原を舞台にした芝居をやっている。この時は、お忍びで吉原に遊びに行く吉宗という芝居をやっていた。
 南町奉行所では、白洲が舞台でそこを囲んで客席が用意されている。裁きの場面を見られる仕掛けだ。大岡越前守のお裁きの場に吉宗が登場という芝居だった。吉宗の特集の年だったから吉宗だらけだったが、そうでなければ、年四回ほど出し物を工夫して替えるという。
 
 取材していて感動したのが、この村で仕事をしている若い役者達。さまざまな劇場で芝居をしている若い役者はこの江戸村の所属。劇団ナントカをひと月契約して、というのではないことを教えてもらった。時代劇が好きで、芝居が好きでここに集まって来た青年達である。今でも、時代劇が好きで、江戸時代の人間を演じたい若者がいるというのがうれしい。
 募集広告に応募し、オーディションに受かった人が、江戸村の養成機関でさらに練習を積み、稽古を重ねて段々に大きな役についていく。このオーディションがかなり厳しくてなかなか受からない、と言っている。
 ただ「芝居」をやりたいではなく、時代劇がやりたい、という一人一人に聞いてみると、楽しいけれどけっこうやっかいらしい。
 「まず、時代劇の所作を身につけるのが大変なんですよ」と誰もが言う。所作ですよ、最近ではあまり使わない言葉。
 これまでの日常で全く着ることのなかった着物の着こなしに慣れることに始まって、日本舞踊や、日常生活の作法など、現代の若者が江戸の人を演ずるために必要なことを毎日厳しく訓練しなければならない。言われれば、「そうか」なのだが、その点を見落としていた。
 ジーンズとTシャツから、着流しの町人や侍の格好、ある時は将軍、また町娘やお女中、姫に変身するのが大変なのだ。それなりの身のこなし、動作の違いを体で覚えなければいけない。
 コチコチに時代考証をした芝居でなくても、江戸らしさは求められるのである。
 劇場ごとに、一日七回か八回もの公演が繰り返される芝居では、役を交代でこなす。午前中遊び人役だった人が午後は奉行、といった具合。
 そこで「役によって口調も変えなければいけないし、着物や鬘が変わる楽しさがある」ということになる。立ち居振舞いというと何だかやけに古めかしい言葉になってしまうけれど、いわゆるそれを「時代劇風」に見せ、なおかつその身分らしくなければいけないわけである。
 侍が部屋に入ってくる時に襖を開ける動作と、商人、宿屋の女将、役人、娘、など何気ないけれど、身分や年齢で違っている。見ている方は日本人だからその違いを何気なく受け取っているけれど、演ずる方は意識してそれを演じ分けるのである。一人一人は今の若い者で、彼らが着物を来て鬘を付けて、江戸時代に入っていくのだ。
 
 まず、たまに着物を着た時に誰もが経験するように、着物を着て歩いているうちに前がグズグズになってしまうというのを誰もが経験する。前がはだける典型的なダラシナサ。しかし、毎日身分の違う役になりながら着物を着ているうちに、それらしく着られるようになり、半日着ていても着くずれもしなくなるという。
 それに「ここでは、毎日お客さんの前で演じられるので、最高の勉強ができます」と多くの青年が言う。健気なのだ。舞台で演ずるだけではなく、各劇場の前に出てお客さんの案内をするのも、切符にスタンプを押すのも、場内整理をするのも全てその役者達。
 誰に聞いても「そうしてお客さまに接するのも勉強のひとつ」と、これまた健気である。健気でしょ?
 こうしている間も着物を着ているわけで、一日の活動のすべてが着物姿ということで慣れるわけである。入場者を数え、中に案内し終えてちょっとした時間ができると、せりふの稽古をしている。これまた、健気である。
 この風景もまた、ひどく不思議である。
 ベースボールキャップをかぶったダブダブパンツの坊や達とトレーニングウエアにカメラをぶら下げた父、茶髪系の母親というお客さんの切符をちょんまげ姿の侍がチェックして「一列にお並びくださーい」と大声を出している。
 背広姿の団体の横を、江戸村の「社員」が忍者姿でちりとり片手に場内のゴミを掃除しながら通り抜けて行く。
 全体、ひどくおかしい。

 一般の劇団で養成期間を経て、舞台で演ずるまでにある程度時間がかかるというのとは少し様子が違う。企業が役者を必要としてそこで育成している、ということである。だから、稽古も仕事の一環になる。早く仕事として芝居ができるレベルにならなければいけないわけだ。
 日が暮れて、日光江戸村が「閉まって」から踊りの稽古しているのを覗きに行った。ここのオッショさんが猿若流の名取りだとのこと。
 昼、話を聞いた南町奉行所にいた若者が、踊りの稽古に来ていた。この夜中心になっていた名取りさんも若く、他の若い人がその人をまねて踊り、わからない動き、細かなところを直してもらうというやり方だった。その流派の踊りを覚えるというよりは、日本舞踊を習うことで時代風の「物腰」を身につけるということらしい。
 踊りの稽古場から、忍者の稽古を見に行った。アクションを得意とする役者が集まって、忍者芝居の稽古をしていた。激しい動きと、タイミングを合わせるためのやり取りが続く。徹底的に同じ動きを繰り返して、全部の動きがぴたりと合うまでやる。のんびり眺めていると、タイミングが狂って「ガツ」「グァ」と誰かが誰かを打ってしまうのがわかる。リーダーの口調がけっこうきつくなる。正義の味方が黒い忍者に切られては話にならない。切り込むタイミング、切られるタイミング、見て鮮やかな倒れ方などなど延々続ける忍者軍団だった。

 城代家老氏の話では、やはり日本人は総じて江戸時代が好きなようで、修学旅行や団体旅行できて、思う存分遊べなかったからと再びここを訪れる人がかなりいるということだった。なるほどと相づちを打ちながら、私もまた来たいな、と思っていたぐらいである。
 二日目になって打ち解けて、同心氏と話していると、初めの頃に比べると着物に着替えるのがすっかり早くなったと言っている。それに、着替えるのが面倒なのでそのままの姿で、近所の銀行まで行くこともある、という、銀行の方も初めはかなり驚いたというが、今では慣れたらしい。そりゃ驚くでしょうに。

 企業として、江戸時代を再現してみせる、そこで遊べる江戸を作ってしまうというアイデアの良さに感心してしまった。ある程度の広さが必要なので、街から離れたところになってしまうのは仕方がない。テーマパークとは、浮き世を離れる場所だからそういうものだろう。
 
 二日目の朝早めに入って気づいたこと。
 子供たち向けとして、高札に今日の極悪人というような張り紙が出ていて、江戸村の中でその人相の者を見つけたらちょっとした景品がもらえることになっていた。
 なに、探すまでもなく、日本橋という設定の橋のたもとでそいつが一日中ウロウロしているのだった。こういうサービスも、うれしい。
 私にすれば、とにかく中で酒が飲めるのでいい。アメリカから幻想を運んできた施設の、味気なさと違って、江戸村では軽く酒を飲む楽しみがある。
 江戸の中を平成の日本人が通り過ぎるのを眺めつつ、酒を飲むという奇妙な時間。へへ、悪くない。
 取材ではなく、徹底して遊ぶためにもう一度いきたいと思っているがなかなか果たせないでいる。江戸村で遊んで、鬼怒川の温泉で飲む、大人にはこういうコースがある。





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