東西南僕 10 TV広告
2002年08月02日(金)
 旅先で見る東京製のTV広告

 旅に出て仕事を終え、夕方ホテルに着いて一息つく時に、一人の空間がわびしいこともあって、そそくさとテレビのスイッチを入れる。
 その日のニュースを知りたい。と、東京製のTV広告が流れる。

 東京から遥か離れた小さな海辺の町、山間の町、そんな場所の民宿などで、東京製のテレビ広告を眺める。
 何もことさら辺鄙な場所でなくても、首都圏を遠く離れた小さな都市で東京製の広告を眺めると、その広告が送り出す「商業メッセージ」と、現実にその時にいる小さな町の生活感との大き過ぎる隔たりを感じてしまうのだ。
 そして怒りがこみあげてくる。
 テレビの広告を見ながら「おい、こんなウソッパチやってて恥ずかしくないのかよ!」というのが、私のいつもの実感である。過疎の町で、平均年齢が65才などという場所で、シャンプーの髪サラサラといった広告を見ていると、呆れてしまう。どう考えていいのかわからないという意味で、この国に絶望しますよ。単純な人間です。
 その商業的映像が描き出す世界は、たぶん、広告主を満足させるために考えに考えた「素晴らしき世界」なんだろう。そしてそれは東京のビルの中で業界用語を操りつつ、日夜「見てくれ」を考える日常を過ごす者達が、必死に考え出した、広告的「虚構」で、全体ウソッぽいのである。
 ウソ、とは言わない。なにせ、私もその端くれだから。

 広告で買わせようとしている…物。
 その車で走ろうが、その化粧品を使おうが、そのカードを持とうが、そのウエアを着ようが、その新製品を食べようが、その洗濯機を使おうが、その保険に入ろうが、あるいはCDを聞こうが、何であれテレビの中で広告をしている「素晴らしき商品」を手にしたところで…
 そこで謳うような生活にはならないのだ。
 あるいは、それほど生活に潤いが得られもしないのである。
 その車が走るにふさわしい道がない、その化粧品を使う年齢の女性がいない、カードの利く店がないんだし、 CDを聴く装置もない町内。日中、人が通らず、なんだか年寄りと孫しかいないような静寂の町。そんな場所で、宿からカメラマンと3キロも歩いて畑の中での取材。
 その時、私が旅でいる「この町」のような所では、そんなもんじゃ何も変わらないんだよ、という感覚がひどく不思議になる。そんな商品で変わるほど柔な生活ではないし、変えない方がいいことの方が多い。

 虚構の背後にいる人々の厭らしさに対して、ムカつく気持がふくらんでくる。
 テレビ画面の向こう側にいて虚構に荷担しているすべての人に対しての腹立たしさでもある。商品の実質とは無関係に、広告という商品を作ることに夢中な人々の幻影が見えて、ウンザリするのだ。
 工場で化学的に生産された商品を、頭の中でこねくり回した「虚構」の発想で売ろうとしていることが、日常的に自然と接し、大地から生産物を生み出している人々の前ではいかに虚しいものであるか、わからないんだろうなぁ、と思う。
 今日明日時化で漁に行けないとじっとしている海辺の人々に、マグロの入ったキャットフードの広告はどう受けとめられるんだろう。
 必要以上に物を作っておいて、広告という競争をして何とか自社の物を売りつける、これを単に「自由」経済の正しいありようといっていいんだろうかね。そんな風にも思う。
 もう、私の物言いもムチャクチャではあるのだが。ただ、そのムチャクチャな腹立たしさがやってくることを実感するのみ。

 私自身「東京製」広告を作る現場にいるので、肉体的実感を伴った生活をしている人々に接して、虚構の垢が落ちた状態になる旅先では、無性に「東京製の広告」に腹を立てることが多くなるのだ。
 …あなたたちがそっちできらびやかに広告して売っている物が、今私のいる町の目の前に広がる海や、川を汚すのに一役買っているということはないんだろうな? と思う。
 …省エネだクリンだとは言っても、その車は結局は排気ガスを吐き続けるんだろう? とも思う。再生不能の部品が沢山あるんだろう?
 その電化製品を動かすための電力の元になるエネルギーについてまで考えた上で、自然にやさしい製品づくりなどと言っているんだろうな?
 この町に来てみるといい、都会の人間なんか知らないうちに小さな半島の内側に原子力発電所ができているんだぞ! という事実があるのだ。しかもその発電所で作られた電気は、都会に送られるのだ!!
 その化粧品は「素材」は自然の物だったにしても科学的に加工したがゆえに、もはや自然ではないじゃないか。その瓶やケース、パッケージは、何で作った物ですか? 自然に帰る物なんですか? 再利用できるんですか?
 そんなことを思い巡らして、自分の日常を棚に上げてけっこう真っ当に怒ってしまったりする。
 消費者の立場からすれば、広告というのは本来「よりよい商品情報」であるべきだと思うのだけれど、この国の場合には、虚飾で購買心を煽るといった趣に満ちているじゃないか。それが、どうにも気にいらなくなってしまう。
 すっかり田舎の味方。田舎への回帰である。
 自分たちが漁をする湾に注ぐ川の水をきれいにするために、隣県にある川の上流部に木を植えに行く人々にとって、浄水器や輸入のミネラルウォーターのカッコイイ広告は、どういう意味があると思います? 
 やろうとすれば、自分たちの国の水をきれいにすることができる。ただし、50年ぐらいはかかる。それでも始めないと始まらない。
 飲み水がまずいから海外から買ってしまおうという発想は、よってたかって世界の淡水を枯らしてしまうことに荷担していることになるでしょうに。森からチョロチョロと流れ出る清水を見ていてそんなことを思い巡らす。
 
 そうした東京から送られる、というか、ばらまかれる広告に比べて、地元の広告というのは、もっと実質を伴っていて、広告は商品情報であるべきだという基礎的なところで機能しているのが、かえって新鮮で、面白い。
 地元の小さな商店や、その土地にだけにいくつかの支店を持っている電気屋さんなどは、金をかけたCFを作る予算がないのだろうが、「いつまで、何を、いくらで売るのか」を明確に伝えたり、何々町の「何屋」ですという町名が地元の人にはちゃんと通じるというような広告が、実質を伴ってこっちに飛び込んでくる。
 狭い地域に物を売ればいい商店と、全国的企業では広告が違って当り前だろ? と言われれば、理解していないわけではないけれど、東京発の「虚飾に満ちた」映像は、まるで商品に好意を持つことのできない、テレビの中だけのうかれ騒ぎに思える。それで全国的企業の広告の機能を果たしているのか、と聞き返したい。
 と同時に、そうしてこれまで繰り返し売ってきた「新製品」の歴史が、この国のごみの山を築いてきたんじゃなかったっけ? と逆襲する。

 どんな広告をしようと、選択して物を買うのは消費者の「自由」であり、消費者の「判断」によるのだから、構わないのだというのも理屈だろうが、商品情報として役を果たしていない広告という無駄づかいを容認するほど企業に余裕があるのか。そういうことをしていていいのか、そんな時代ではないのではないのではないか? と思ったりする。
 自社製品が日本の市場を完全に席捲するまで止めようとはしないだろう、巨大広告。自社製品がこの国を席捲したとしたら、次はアジアへ、そして世界へ、と欲望は終わりのないものである。 それを後押ししている虚構の巨大広告が、果てしない無駄づかいにしか見えなくなる、旅の夜なのだ。
 旅先の小さな町で、テレビの広告を見ていると本当にそんなことまで思ってしまうのである。

 その半島独特の歴史に培われた醤油の味、半島の北側と南側の魚の違い、地勢によって野菜のできる側とできない側、昔から中央との流通が発達していた方とそうでない方、そうした歴史の集大成として今、なかなかいい感じで存在している半島の両側の町と人々。
 そこに数日間いて、朝の市場で目にした魚を食べたり、その魚を獲りに行く人を取材していると、工場のラインから次々に吐き出される物を口にするしかない街の生活が、確かに異常なものだ、という気になる。実に単純に、簡単に短時間で影響されてしまう私であることは知っている。
 「広告という商品」を売るためには何だって考えてしまう手練れから生まれるテレビ広告が、素朴な町で実感をもって迎えられるわけがない。
 よく言うが、テレビというのは実によく嘘を見せてくれる媒体であって、それほどの「効果」はなく、逆効果の場合も多いことを都市生活者である大企業の人々は思い直した方がいいと思う。
 広告は面白いけれど、その社の商品を買う気にはならない、というのは果てしなく無駄づかいである。
 その果てしない無駄づかいの結果が、回り回って私の旅先の海や川や、自然を、少し汚すということを思うとやはり腹を立ててしまうのである。
 こういうことで、旅する人間はへそ曲がりになり、頑固になっていくらしい。




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