東西南僕 11 博多の屋台
2002年08月29日(木)
 昼は寝ていて、夜いない経営者たち

 博多の屋台の取材の仕事が来た、と話したら仲間が皆うらやましがった。
 それが「屋台で飲み食い」する取材だったら私だって単純に大喜びするところだが、そんな取材が回って来るはずがない。それに、真面目な話、そんな取材だったら断るつもりでいた。ただおいしいというだけの「食べ物」取材は、今さらしてもしょうがない。特に、博多の屋台の場合ガイドブックはあるし、「飲み食い」という観点から、本当に屋台に詳しい人が書いた本はいくらでもある。良書も悪書も含めて、色々だが。
 私自身も博多の屋台の取材を数回したことがあるが、編集者が「ここ」と指定して来るのはいつも同じ店であり、何を取材するかに関しても新しい視点がない。それに私は、先方に行って飲み食いして、「ただ」おいしかったと紹介するだけの取材仕事は基本的にしないことにしている。おいしい、まずいをいうのも厭やだし、私自身の食べ物に対しての視点が定まっていないこともある。

 その時来た仕事は、屋台案内ではなく、屋台商売の「こつ」という、わりあい真っ当な方向からの取材を依頼されたので乗った。屋台商売の向こう側、の話を聞くというのだから興味を持った。ただ、取材までの時間がなくて、非常に困った。
 博多の屋台は勝手に取材するわけにはいかないし、取材先のご主人とあらかじめ「こういう取材です」という話をしておいて、約束の時刻に約束の場所、つまり屋台が出ている場所に行かないことには話にならない。仕事を依頼して来た側は、ただ任せるというだけだったので、まず博多の屋台の組合の連絡先を探すのに半日ぐらいかかってしまった。
 博多の屋台の組合は3つあるのだが、「福岡市移動飲食業組合」に連絡がついたのは、取材日に決められた日の前日の午後。ところが組合長がのっぴきならない用事で不在。でも時間がないので、こちらの目的を説明して「そういう話ならこの店で聞くといいよ、という店を何軒か推薦してください、私から直接連絡して取材しますから」と伝えた。
 組合の方がきちんと伝えてくれたし、会長もこの中からということでいくつもの店を上げてくれた。しかし、その時点でもう夜になっていたので、屋台の経営者はすでに家にいない。
 夜は商売に出ていて、早朝帰宅、昼過ぎまで寝ているのが普通。こういう人達に連絡を取って、急な取材に応じてもらうのは本当に心苦しい。こういう「苦労賃」は出してくれない。私は、次の朝には博多に向かって飛び立つことになっていた。気が気じゃない。なにしろ、まだ一軒も承諾をもらっていないのだ。
 次の朝、まず羽田から三軒に電話した。一軒確保、もう一軒は断られ、もう一軒はまだ寝ているのでもう少ししてから電話をしてくれと言われた。それでは博多に着いたら電話しますといって飛行機に乗った。博多で先の人に電話すると、なんとか承諾してくれた。さらに二軒電話したら、そのうちの一軒が「いいですよ」と言ってくれた。夕方、屋台を出す時刻の取材が一軒、常連さんが顔を揃える時刻に一軒、博多発の終電が出る時刻の混雑時に見に来たら、という店が一軒ということになった。
 「博多の屋台を語るなら、この人! という方を紹介してくださいと組合長にお願いして、推薦していただきました」という言葉が功を奏したのかも知れない。とにかく取材はできることになった。

  行政との関係、同業者との闘い

 毎夕商売の場所に出かけて行っては店を「建てなければいけない」のが屋台である。この取材の屋台は、中洲の川に面した屋台ではなく、市の繁華街の屋台だ。
  夕方、帰宅ラッシュの繁華街で人波を避けながら、歩道に屋台一式を運んで来る。規則に従って、福岡市の市道と背後のビルの私有地にまたがって位置を定める。これが、レンガ一枚分ずれてもいけないほど厳密に位置が決められているのだ。時折り、警察が見回りに来るというから厳しい。
 博多の屋台は、おいしく楽しく観光の目玉にはなっているが、市の行政側から見れば「道路交通の妨げになるし、必ずしも良心的な店ばかりではない」ので、整理してしまいたい、という対象のようだ。私は、超近代的ビルの足下にこの道数十年の屋台があるという風景の方が、大好きだし、生き生きしていて人がいる街というのはそういうものだと思う。だが、「行政」はそうは考えないのである。
 とにかく、組合と市側で折り合いを付けている規則を破るわけにはいかない。屋台を所定の位置に置いて、いよいよ店を建て始める。
 一軒目の店「華」の山内さんによれば、六時に「店を持って来て」商売を始めていいということになっているそうである。所定の場所に着いたらすぐに商売を始めたいのだが、屋台を組み上げるには約一時間ぐらいかかる。もちろん並行して、コンロとガスボンベをつなぎ、湯を沸かし、だしを暖め、料理の材料を使いやすいように配置し、ビールのケースを重ね、電線をつないで店に明かりを入れ、という開店準備が続く。肉体的に、この作業ができなくなると、もう屋台はやっていけない。
 福岡の屋台は、行政との長い「闘い」の末営業の権利を獲得したので、自分達も厳しく規則を守って営業しているという自負を持っている。
 前にも書いたが、大きなビルの前の屋台は半分がビルの所有の土地にかかり、もう半分が市道にかかっている。市道は2.5m以上は利用できない。私有地の利用は話がつけばわりと楽だが、商売が終わる午前二時頃から店を解体したあとで、私有地部分のタイルに洗剤をかけて洗い流し、きれいにするという作業がある。そこまでして、元通りにしなければいけない「屋台」である。箸一本、楊枝一本落としたままにしておいてもきっちり言われるそうだ。今日は遅いから、掃除は明日にして寝ようということができない商売の形なのである。
 一分でも早く店開きして商売を始めたい、でも、きちんと店を建てないとあとで困るから、かけなければいけない手間はかける。気持が錯綜している。
 この時間が何ともワクワクとイライラの混じった奇妙な時間である。
 この時の作業を正しくやっておかないと、その夜一晩の作業が円滑に運ばない。途中での修正もできるが、店開きの段階で最初の客を完璧な状態で迎える用意をしておかなければいけない。
 屋台ができて、日が暮れた。

  同じように見える屋台だけれど

 並んでいる屋台はどれも「同じようなもの」だと思いがちだが、実は「熾烈な」闘いが続いているのだった。組合に入っている屋台は、博多の決まり物であるラーメンやおでん、酒の焼酎、そしてビール、といった品の価格をおおよそは決めているのでそこでは差がつけにくい。
 そこで、オリジナルメニューを考えなければいけないというのである。いや、日本語で言えば「店の売り物」を作らなければ、本当に同じような店が並んでいるだけになってしまう。
 旅人で行けば博多の屋台は同じようなものにしか見えないのだが、取材でよくよく見ると、少しずつだがはっきり違っている。メニューをじっくり観察するとそれがわかる。
 屋台それぞれが、隣りの店と同じメニューではどうにもならないので、工夫を重ねる。いくら人気があるからといって、隣りの店のメニューをまねるわけにはいかない、それはトラブルのもと。おでん、ラーメン、酒、焼酎などどこにでもあるメニューは統一されている。そこでオリジナルメニューにかけることになる。
 だからといって高い値段をつけるわけにはいかないが、そこの「闘い」になっている。最近では、メンタイ玉子、焼きラーメンはどこの店にもあるようだがそれぞれにオリジナルとして考え出した店がある。

 山内さんの「華」は、営業品目は、おでん、焼き鳥、めし、酒類、餃子、天ぷら、ラーメンである。台風は休む、日曜日は休む。サラリーマンがいないので客が来ないということで日曜には休みになる。ここの売りは、ギョーザ(水、揚、焼)、開店当時から山内さんは得意にしている。それに、ホルモン、めんたい玉子、などなどである。これは特に上げればということで、どれもおいしいということは言うまでもない。自分のメニューだけを研究するわけではなく、時おり他の店に偵察に行くこともある、もちろん他からも見に来ている。決まりが厳しく、競争も厳しい、体力的にも非常に大変で、ということなので根性がいるのだ。
 ここを始める前は中華料理屋さんをやっていたという。山内さんは、動かない店から動く店への転向である。
 「華」の餃子がうまいという評判をつくるまで、5、6年。きちんと常連がつくまで山内さんの感じでは10年かかっているそうだ。餃子は、具を色々工夫することができるのだが、夏場の屋台で中の具をいい状態に保つのが難しいので、具は一種にして調理法を三種類にしたというのである。残った分は全て捨てなければいけないという事態では全然儲からない。5、6年目の時にようやく、餃子の「華」という定評ができて、初めての取材を受けて、博多の屋台マップにも登場したそうだ。ここはとてもうれしそうに話している。それでやっと認められるようになった。

 何かおいしい一品を思いついてそれを売り出し少し知られるようになると、すぐに同じメニューが博多の屋台中にそれが広がる。何せ、特許だの商標登録だのがないのだから真似されてもしょうがない。しかも、あと発は工夫を加えることができるということを考えると同じような価格でより洗練されていてたぶん材料費も安くしているだろうということになった、真似た方が得しているということにもなってしまう。そういうことがあってもなおかつ、自分の処の味、メニューを創作し続けなければいけないというのである。これには、少し感心してしまった。
 流石に、一つ屋台の左右両隣がメニューを真似ると文句が出て騒動になるらしいが、ひとブロックも離れていれば真似られても文句が言えない。似たようなものだけれど「ここが違う」と工夫したところを言われるとどうにもそれ以上文句は言えないということであった。
 そういう内側の闘い、店同士の競争があって、行政に対する明確な態度を貫かなければ生活が成り立たないということもある。その上で、実績を積み重ねて「今の代限り」とされている屋台商売を次の代にも継いでいけるように今その下地づくりをしているような気配もあった。
 それは、屋台を目指してやって来る全国からの観光客を満足させ続けるということである。

 今、日本を旅する多くの女性達に向けて出版されている旅情報誌、食べ物情報誌、あるいは街の情報誌に取り上げられる機会があれば、逸機しないように心がけて店の宣伝に勤める。この屋台は面白い、ここではこれがおいしい、安くて充分満腹できるほどの量がある。並んで待って食べる価値がある。こういう風に取り上げられることを受け入れて、その書き方に充分応えるほどのものを毎晩提供する。
 もしかしたら、その客は次は来ないかもしれないわけだから、どうしても二度目の訪問をさせるためにどれほど魅力ある食べ物を目の前に出せるかということになる。広く知られて、雑誌にも載って多くのお客さんを迎えると、自分のところのことばかりではなく博多の屋台を代表しているような気持で接して、また来ようと思ってもらわなければいけないという気持になる、といった屋台三十年目の親父がいた。この一言には、やはり力と意志を感じた。

 夫婦で出す、モツ鍋

 二軒目にお邪魔したのは、「まるよし」。夫婦でやっている屋台である。屋号は、奥さんの名前からでもあるし、福岡市移動飲食業組合の理事をしているご主人の名前からでもある。いずれにせよ、二人分の思いが込められている。サラリーマンをやめて、屋台をやるようになってもう十六年目だそうだ。その頃もう「脱サラ」という言葉はあったという。
 「私はあんまりやる気はなかったんだけれど、女房の方が…」と言ってから、かなりしばらく間を置いて、「ずっと夫婦でやり続けられることをという考えで、地道にコツコツという態度で始めましたよ」とつぶやく。いたって、しゃべりたがらないご主人ではある。

 「まるよし」を訪ねたのは、七時頃。これからお客が込み始めるという時刻だ。
 常連さんの中には、店さえ開けば顔を出すという人がいるそうだ。屋台を始めて三年目ぐらいから常連ができて、「今は、そうですねぇ、常連が六割で、一見さんが四割ぐらいで、それが土曜日だと、一見が六割になるかな」。多くの旅行者が博多の屋台を楽しんでいるらしい。
 客は名乗るわけではないし、名刺をもらうわけではないから常連といっても顔で覚えているだけ。そういう人が異動で顔を見せなくなってしばらくすると、出張で博多に来て来店した客が、「うちの会社の、誰それがこの店を教えてくれた」と言う。しかし、名前だけではどの人なのかわからないのだと、奥さん。そこで顔形を言ってもらうと「ああ、あの人!」と思い当たるという話がおかしい。
 沢山ある博多の屋台、普通はどこに入ったものか迷ってしまうので、いい店を推薦してもらえば安心という次第。中には、企業の社内報に載ったというので、福岡出張を機に現れる人もいるという。大企業の社内報に「博多に行ったらどの屋台」という記事が載っているとなると、やはりその存在が大きなものだとわかる。
  出張や転勤で博多に来る人の中には、当然屋台は嫌いだという人もいるらしい。ただ、最近若い人の間では「博多へ行ったら屋台」という人も多いし、屋台に行くために博多へ行くという傾向も非常に強いそうだ。屋台がなければ博多らしくないという感じはあるのだが、そう思っている人ばかりではないのだという。
 歩道に屋台がなく、人通り滞ることがなく…というのがきれいな街という考えもあるのだ。歩道を使うので、交通渋滞という問題があって警察が嫌がる。ね、福岡市移動飲食業組合の理事さんがご主人だとこういう話が聞ける。
 九州旅行に来て、博多で一泊という予定を立てる。それは屋台に行くため、というスタイルが定着しているようだ。しかも女性誌によく載るせいか、女性客が多い。そのために受けそうなメニューを考えてということは思わないけれど、同じメニューでは代わりばえしないので、ここでも一、二年に一つぐらいは増えていく。
 
 ここの特色は、モツ鍋である。ブームが来る遥か前からモツ鍋は定番のメニューであり、ブームのさなかも、今それが去ったあともこの店の売り物としてメニューに載っている。スープにこくがあり、塩味系のうまい鍋である。焼酎をすすりながら、中のモツをつまみ、クタッとなったキャベツを食べる。ふふん。
 ブームの時は、材料が高くなって非常に迷惑したそうだ。一時はモツがなくなったという。ブームの時にはそれこそ爆発的に人気になってしまったので、どこの屋台にもあるメニューになっていたが、私がいったときはもう、ブームが去った感じがあった。
 ここの新しいオリジナル・メニューは、「軟骨にんにく炒め」と「砂ずりピーマン炒め」。この二つは最初に考案した物だし、味つけに微妙なこつがあるので今のところまだ他の店ではあまり見られない。この新しいメニューも評判が良ければ、あっという間に他でも始める。
 「雑誌なんかに載ると、すぐですよね」といっている。
 例えば、ご主人が豚肉とキムチを炒めた物を作ったそうだが、専売特許があるわけでもないですから、いつの間にかどこのメニューにも載っていて、それがキムチとばら肉で「キムチバラ」という店もあれば、逆に「ばらキムチ」のところもあり、それぞれに少しずつ工夫を加えてあれば、まぁ、文句を言うわけにはいかないのである。
 客側からすれば、そうして「博多の屋台はおいしくなっていく」のである。

 「まるよし」では二人のコンビの良さが寛いだ気分をかもしだしているのが特徴だ。
 「私は愛想がないし、商売が下手ですから、初めて見えた人とは口をききませんよ。うちの女房の愛想がいいけん」とご主人が言い、「取材の人にもしゃべらないですよ」と奥さんが言う。が、そのご主人が続々と詰めかける常連さんには間のいい声をかけるのである。しかも、知った顔が椅子に腰かけるかかけないかのうち、好みを心得ていて、飲みもの食べ物を素早く出していく。その気働きの利くことは見事である。常連さんには声をかけるんですね、と聞き直すと奥さんが、「初めてきて、間を空けないで来てくれる人にはちゃんと声をかけるんですよ」と教えてくれた。実によくお客さんを見ているということではないか。横から「お客さんが二度目に来てくれるのが一番うれしい」とボソリと言った。
 永年やっているお陰で、北海道からもお客さんが来るようになって、また来たよ、がうれしい。「娘が大学生で旅行した時に博多で感激した店、と聞かされたお父さんが出張で博多に来たから寄ってくれたりすることがあってね」という。父は、娘が書いた地図を持って来たそうだ。
 こんないくつもの「二度目の来店」を心待ちにしながら、二人はおいしく温かい「まるよし」の毎日を積み重ねているのである。

 盆や正月には、地元育ちで大坂や東京へ行った人達が帰省していて、屋台で飲みたくなってやって来るそうだ。
  一見の客は、メニューの選び方に形があって、何かの雑誌で紹介した「この店のお薦め」をその順番通りの頼むそうだ。ご主人にはその注文のしかたでどの雑誌だなと見当もつくらしい。女性の旅ガイドの本の影響力は凄い。

 二時半までやって終わる。終わっても、屋台が動き出すのは、四時過ぎぐらい。実は店を出す時より時間がかかる。洗い物をして掃除をして帰ると約二時間かかるそうだ。明日屋台を持って来れば商売が始められるということにして帰らなければいけないのでやっかいなのだ。

並んで待っても
食べたい飲みたい屋台

 あらかじめ、並んで待つことになると言われていたのが「小金ちゃん」。ご主人の小金丸さんはここで三十年の屋台商売。
 時刻午後十一時、若い女性が多いのには驚いた。しかも、地元の人ではなく大半が旅行客である。びっくりして聞いてみると、小金丸さんが「十人のうち八人は旅のお客さんやねぇ」と言う。それでは地元のお客さんからそっぽを向かれるのではないかと心配したが、地元の人は「我々はいつでも食べられるから」と長い列を見て他に回ってしまうという、こなると客も偉い、と言うしかない。
 旅雑誌や女性雑誌、それに食べ物情報誌などの取材には快く応じているせいで、本で見て来たという女性客が押しかけている。しかも客に聞いてみると、何度目かの人も初めての人もいた。
 これほどお客を集める力は何だろうか、聞けば「何がと言われると困るけれど、初心を忘れないということでしょうなぁ」だけである。屋台三十年の人にこう言われると、月並みな言葉にも重みがある。
 並んでいる間に観察していると、列の長さを見てあきらめて立ち去る人にも必ず声をかけている。顔見知りであればちょっと言葉を交わす。列の中で退屈そうな人がいれば話しかけたり、もうすぐ座れそうになると、メニューを渡して座る前に注文が済むようにしてしまう。だからといって、どんどん客を裁くといった感じは微塵もない。
 あんまり列が長い時など、会社の話で長くなるお客さんには「帰るように促す」こともある。常連さんも、ここでそういうことをしたらオヤジにしかられるということを心得ている。男の同志には、今度彼女連れてこいよぉ、と言って追い出すのがうまい。
 そんな中で、小金丸さんがポツリと漏らした言葉「ただ、これだけ多くのお客さんだから皆さんのハートを掴むというわけにはいかんけれどねぇ」という一言が印象的だった。どう努力しても二度目の来店をしない人だっているはずである。

 「小金ちゃん」では、スジ肉をコックリしたみそ味で煮込んだドテ焼きと、焼きラーメンが特に人気のメニューである。そして最近評判をとっているのは「キムチばら」だ。某宮様も福岡に来るとこれを食べに寄るそうだが、キムチとばら肉と炒め合わせて、そこに玉子を溶きほぐして半熟状態で食べる。その玉子を落とすところが工夫だそうだ。
 一般に料理名としては聞き慣れない「焼きラーメン」は、夏の博多で、熱いラーメンのつゆをすするという気にならないことと、もう一つは焼きそば用の蒸した麺は暑い時期は傷みが早いので具合が悪いということから、何か手はないかと思いをめぐらし、ラーメンの麺で何かできないものかと考え出したメニューだ。確かに一見焼きそばだけれど、あくまでも焼きラーメン。他の屋台にもあるが、それぞれに味が違うから(自分のがおいしい)、と堂々と構えるところが頼もしい。

 この夜隣り合わせた若い女性達は、関西からの客。実は前の晩も来ておいしかったからこの夜もここにしたといっていた。関西の人の「舌」を満足させればまさに折り紙付き。「小金ちゃん」の売り物である焼きラーメンを初めあれこれを、いくつか取っては仲間でつついて、沢山の種類と量を口にして満足して勘定を払っていた。「おなかいっぱいになった? これで帰って寝れるね?」というのがご主人の別れの挨拶であった。この一群のあとに座ったのは東京からの女性仲間だった。こうした旅行者達がいなくなって、終電近くなった時にもう一度大混雑が起こる。ここでラーメンを食べて帰ろうという地元の人達だった。腰を降ろしてラーメンを食べてさっと立ち去って行く。
 三十年前は「こんな風に」若い女のお客さんを相手にすることなどなかった。鉢巻をして長靴を履いたお兄さんが焼酎を飲みに来たぐらいだったと言っている。屋台の最大の変化はこの夜の客がそうだったように、屋台が女の子だけでも入れるようになったこと。しみじみと小金丸さんが言う。
 全国的に知られて、博多の屋台と言えばすぐに名前が上がるようになると、屋台を代表するような気構えで「博多の屋台はいいよ、良かったよ」と言ってもらえるようにしなければいけない。それぐらいの気構えでやっています。その上で、お客さんからも市民からも喜ばれる店を続けて、次の代まで残したいものだと思っていると言っている。
 屋台という気さくに楽しめる形の向こう側で、オリジナリティー、コミュニケーション、そしてそれぞれの店の人の人間性を存分い出したもてなしのための気づかいがなされていることが、よくわかった取材である。

 蛇足・屋台でも、こういう視点からの取材は面白かった。有名な屋台で、売り物の料理を食べて「おいしい」という取材はいやだ、という意味がわかってもらえたと思う。




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