東西南僕 13 酒は友だち その1
2002年10月27日(日)
■以下の文は、かつて『オー・ド・ヴィー/徳間書店刊』という季刊誌に掲載した原文に、掲載行数の都合で割愛した文章を付け加えたものです。文中の店がまだあるかどうかの責任は、負えませんので、ご注意下さい。

酒は友だち・その一
『二泊三日の六日町』

 友だちに会うために、旅に出た。
 新潟県魚沼郡に、魚沼六酒、と呼ばれる酒がある、その「友だち」に会いに行くのはどうだろう、とモトさんが言った。モトさんは、僕の酔友である。
 上越新幹線に、モトさんは上野から乗り、僕は大宮から乗り込んで、大寒のさなか雪の新潟へ。越後湯沢で、上越線に乗り換えて六日町で降りる。 昼食を済ましてすぐに「高千代酒造」に向かった。

 杜氏に聞きたかった二つのこと

 造り酒屋を訪ねる機会があったら、どうしても杜氏さんに聞こうと思っていた二つの質問があった。単刀直入に、無遠慮に、そこから話を始めた。質問に答えて、というより、色々と「教えてくれた」のは、『清酒高千代』を造っている、西牧杜氏さん。
 初めの疑問は、酒の味は、誰が決めるのか? であった。
 酒を造る責任者は杜氏さんに違いない、これは僕にも想像はついている。しかし、例えば社長が「最近は、口当りのスッキリした清酒が人気だから、うちの酒もそういう風にしてくれ」とか、「辛口辛口と口では言うけれど、実際はほんの少し甘口の、優しい口当たりの酒の方が受けているようだから、そういうタイプの酒を今年は造ってみてくれ」などという注文をつけてきた場合に杜氏さんはどうするのか、という疑問があった。
 杜氏というのは、自分の味覚・嗅覚・その他の感覚、そして経験を信じ、その蔵の水とその年の米を生かして「これが旨い」という酒を造っているはずである。その、酒を造る杜氏と酒を売る社長の関係はどうなっているのか、という疑問である。
 まず、酒を造る側からすると、酒の味をコロコロ変えるわけにはいかないのではないか。『高千代』という酒の味を、ある幅の中に決めてあるということもあるし、また酒は機械ではないから、図面を引いてその通りに造るというわけのものでもない。それにしても『高千代』が『高千代』の味わいでなくてどうする、と思う。
 もちろん、長い経験、勘というものによって造るものなので、多少味を変えることはできることはできるが、実際には大きな変更はしない。一般的には、会社の方針に消費者の声の反映させて決めるということもないではない、現場の者の耳に「もう少し辛い方がいい」などという声も当然聞こえてくる。
 僕はあれこれと、返事を想像していた。
 時間がかかったが、ゆっくり言葉が満ちてきた。
 杜氏としては、大きな変更を強要された場合は、「じゃ、あなたが造りなさい。(そういう酒を造るには)私は必要がありませんから」とカマをかけるぐらいはするというのである。
 「そう言う権利を持っていると思う、それが杜氏である」と西牧さん言う。
 「そうでも言わせてもらえないと、半年も家を空けて酒を造りに来てはいられませんですよ」
…であった。んー、凄いものである。
 昔は、会社の方が強くて「それなら違う杜氏を連れてくるからいい」という時代が長く続いたそうだ。
 「戦争前はひどいものでした、酒を造る権限はあったんですけれど、それ以外は言いなり。会社に対する意見などは、全く口にすることができなかったですよ。でもね、戦後はそうではなくなってきましたね。戦争が終って、いい酒を造ることができるようになった頃からそうなってきたし、何より最近は、後継者がいなくなってきたので、良い酒を造るためには杜氏に任せるしかない」ということが大きく影響し始めて、杜氏の地位が確実に上がったというのだ。
 「杜氏と社長の間の葛藤は、必ずある。あるものです」と西牧さん。
 「米と水から、そこには無かった『酒』というものを造り出すんですから、葛藤がなかったら駄目ですね。それがあるからこそ、また去年よりいい酒を造ろうということにもなるんです」。
 後になって、西牧さんは笑いながら「私なんかは、言うことを聞かない方の杜氏ですけれどね」と言ってはいたが。
 「確かに、社長に対して弱気な杜氏もいます。でもいい酒を造るために頑固になっているわけですからね。ものを造るのに誇りを持て、ということです」。
 以上の話は西牧さんがひっそりと語ってくれたのではなく、高千代酒造の社長、高橋雄三さんの隣りに座っていて話してくれたのである。社長と杜氏さんを前にしてする質問ではないに違いなかった。でも、清酒の取材で一度は聞かなければいけないと心していた。できるだけ優れた杜氏さんと、酒がいいことで知られる蔵の社長でなければきけない質問だと前々から準備していた。
 どこの造り酒屋でも同じというわけではないだろうが、酒の向こう側が少し覗けた。
 『高千代酒造』では、そういう風にして酒が造られるのである。

 もう一つ、酒の造り手に聞きたかったのは「米のできは毎年違うのではないか? それは酒を造る難しさになるのではないか?」ということである。
 いわゆる、年による米の善し悪しに関しての疑問。
 以前、農事試験場で酒米の専門家に話を聞いた時に、酒を造る米は精米して周囲を削るので、その年の米の出来不出来は酒造りにあまり関係がないと、言われたことがある。
  僕は、この弁をそのまま信じる気になれなかった。
 確かに米はワインを造る葡萄などに比べれば、遥かに安定した収穫物には違いないけれど、それでも、米は毎年違ってそれなりに酒造りに影響して来るのではないか、と思い続けていたのである。単純に言って、農作物である米が「毎年同じでき」ということはありえないというのが、僕の基本的な考え方だった。
 先の酒の味を決める話をしている中で、西牧さんが、社長と葛藤しつつ「去年のデータを参考にしながら、もっと良いようにと造るわけですよ。もちろん米のでき具合もみなきゃならないしね」と言ったのだ。
 その瞬間、僕は話を第二の話題に移し、僕の疑問を説明した。
 返事は「毎年、違います」だった。「米のできは、酒のできを相当左右します。原料ですのでね」と西牧さんは断言した。

 米を判断する難しさを言うと、全く毎年一年生みたいな気がするんですがね。豊作で、米の粒が良いできだといってもですね、酒にした場合にはたして良いかどうかは別なんですよ。米に含まれている澱粉の質とか、蛋白の量が毎年、微妙に違うんですね。硬さも違うしね。
  米が硬いとか柔らかいということは、麹造りに直接関係します。麹造りの方でどういう麹を造るかというようなことが、まず米から始まるわけですからね。米の状況は、収穫前から研究機関や、試験場などからデータが届くわけです。硬いとか、去年に比較するとどうであるというような微妙な違いを教えてくれるわけですね。
 それで、今年の新潟の米は硬い、ということがわかれば、それに対しての対策はできるし、今度は技術的な問題になるわけです。
 その、年毎の米に対する対応策ができないと優れた酒はできないということであった。
 「酒は、実際は、去年と同じ酒は出来ませんけれどね。脱線はしないようにしなければいけませんし、より良くということは考えています」。これが、「関東信越国税局酒類鑑評会で一八回入賞、全国酒類鑑評会で二回入賞」している杜氏さんの言ったことである。

 『高千代酒造』の外観をスケッチしていたモトさんも加わって、酒の話を聞いているうちに、できたばかりの清酒を飲ましてもらえることになった。「利き酒をしてもらおう」と言われたが、なに、当方は飲んで旨いかどうかぐらいしかわからない。
 「社長と杜氏の葛藤の産物。意地と頑固の結晶。経験と勘の滴。地下水と米の合体。風土と科学の混合体」を啜る。15、16、17号タンクの酒を利き酒用の「蛇の目」の器に入れてくれた。
  飲んで、モトさんは、笑った。僕は、参ったね、と言えただけである。利き酒ということで、口に含んだ酒を吐き出す容器を用意してくれたのだが、もったいなくてそんなことはいたしません、全部飲みました。二人とも、17号の酒が旨いという意見。西牧さんは、やっぱりね、と言った。
 「こういう風な搾ったばかりの酒は、甘いと思えば甘いし、辛いと思えば辛いんです」と社長がつぶやいた、実にその通りだった。巧みな表現方法があるものだ、と思ったし、酒にそういう表情があることが面白かった。

 酒呑み天国、炬燵、鍋、布団
 
 東京を朝たって、新潟の造り酒屋でたっぷり話を聞かせてもらって、気に入った酒を買って、宿に着いた。宿は、六日町でタクシーに乗って「清水のどんづまり」と言えば連れて行ってもらえる塩沢町清水で、その先に人家がないという所である。ここの親爺さんが熊を撃ちに行くのに同行したことがあるというモトさんの推薦である。他に客がいない。
 午後四時少し。
 石油ストーブが部屋を暖め、炬燵がある。外は深い積雪。どんづまりなので、車も通らないという静けさ。僕らが買って持って行った酒とは別の「高千代」が用意してあった。着替えて、僕は軽く風呂に入る。
 午後四時半。
 もう飲むしか手はない。酒は外の大気の温度になっていて、冷やとしてはなかなか良い温度。コップに注げばもう飲める。
 午後四時半少し過ぎ。
 つまみがないのでまず「茶筒」を開けて、中の煎茶を出してつまんだ。モトさんの開発したつまみである。妙なことに、煎茶の葉は、酒に悪くない。
 とはいっても、「あんにんご・ウワミズザクラ(上溝桜、一名、金剛桜)」の花穂の、開く前のものの塩漬けが出てしまったら、流石に茶の葉はかなわない。鰊漬けも出る。少し前に会ったばかりの杜氏さんが造った酒を口に運ぶ。モトさんは日頃から「冷や」である。僕は「ぬる燗」を基本的にしている。
  清酒は、冷やがいいとかぬるい燗がいいとか、「なんとかでなければいけない」など、誰が言ったのかわからないけれど、造る立場から言わせると辛いのだという話を聞かされたばかりであった。清酒はこうして飲めというような造り方はしていない。そういうことを言われると迷惑である。西牧さんが、そう言っていた。
  ただし、清酒という酒は、元々ぬる燗ぐらいが、その酒の性格をよく出すようにできあがっている、ということはあるそうだ。体温よりほんの少し高い、熱い風呂ぐらいのぬる燗である。もちろん、それも「それでなければならない」のではない。
 酒が旨くて、時間の感覚が無くなった。
 カジカが、湯気の出ている酒に頭を突っ込んでいる、つまり「カジカ酒」が来た。かすかに甘い香りを放っている。既に酔いの半ばに居るところに、そういう乙なものがやって来る。ちょっとそっちを啜る。カジカも、往生してから熱燗に浸って、呑ん兵衛に喜んでもらえるとは思わなかったろうに。旨い。
 あけびの新芽の部分だけを茹でたものの、真ん中に卵を落としてある。掻き回して醤油をたらしてズズズと食べる。山の風味。一本ずつをしみじみ噛むと、かなりしっかり苦い。やわらかな酒が、フワリと合う。
 焼き魚はイワナと鮎。川魚が好きな僕らは、ウゴフゴといいながら噛み付き、酒を飲む。イワナと鮎の塩焼きに、その川沿いの蔵の酒が合う、ということを今さら僕が書かなければいけないわけがない。
 以前、ここに泊まって「優れた酒飲み」と認められているモトさんだからこうした「肴」が出るのか、雪の深い時期にただ酒を飲みに「どんづまり」まで行ったから少し歓迎してくれたのか、宿の標準メニューなのか、僕は知らない。聞きもしない。
 肴が来る。食べる。飲む。旨い。
 これを延々繰り返して、酩酊から泥酔の底の方に沈んで行く。雪降る夜のオリですな、我々は。
  味噌仕立ての寄せ鍋には、鱈から兎まで入っていた。これを一度煮立ててから、グッと火を小さくしてホツリホツリを箸を出して、食べる。飲む。
 何しろ、その夜は「帰らなくていい」のである。炬燵に足を入れて、目の前に鍋。その横に既に布団を敷いてもらった、怖いものはもう何もないのだった。

 町を下調べする

  次の朝、夕べの鍋に入っていた兎の肉は、撃った時に散弾が下半身に当って、肉が半分になってしまったものだということを宿の親爺さん言っていた。僕が兎一羽からどれぐらいの肉が取れるかと聞いたら、一〇〇匁と言った。懐かしい「匁」である。
 新しい雪はあまり深くなく、どんづまりでも、人家のある場所まで道路は除雪してくれるので道には雪がほとんど無い。真っ青な空から冬の光が降って、気持の良い日であった。
 僕らは、歩き始めた。道は、ひたすら下りである。六日町に向かって歩くと、左の方から登川の音が常に聞こえてくることになる。この川に右側の山から下ってくる小さな川が合流して、やがて登川そのものが魚野川に注ぐ。輝く白と灰色の風景の中を、ヒヨドリがよぎる。雪を解かすために出している道路の中央の水にセグロセキレイが舞い降りてくる。むくむくした雀が、枯れ枝に群れて止まっていたりもする。モズを、双眼鏡の視界にとらえることもできた。ハシボソガラスが送電線の碍子の横にジッとしていたりする。
  宿を十時に出て、二時間半。冬のキーンとした大気の中、下りの道を八キロほど歩いて散歩を堪能したところで、タクシーを呼んで、六日町に入った。
 前日タクシーに乗った時に、六日町で飲む時はどこで飲むかというような話を運転手氏に聞いたのだが、店の名前だけいくつか教えてもらったものの、場所を教えてもらわなかったことに気づいた。だからといって、困るわけではない。初めての町では…
 定石の一。駅の観光案内に行って、パンフレットをもらう。
 定石の二。地元の本屋に行って、ガイドブックを立ち読みする。
 定石の三。食事した店で、聞いてみる。
 定石の四。町をシステマチックに歩いてみる。
  六日町は広いけれど、繁華な場所は半径十五分ぐらいの中に入るので、酒を飲む場所を探し当てるのに苦労はしなかった。カラオケの無い店。女性が隣りに座るようなタイプではない店。地元の酒が飲めて、料理は和風の店。そして長い間酒を飲んでいる男にとって、店先がそれらしい佇いの店(これの説明はなかなか難しいが、初めての町で良い飲み屋を見つけるには、佇いを読みとれる経験が必要である)。さらに、蒸留酒を一杯だけ飲むのに適当な店も発見しておきたい。…大体こういったところではないだろうか。

 六日町の駅の前に立つと、前方に山が見えて、それが『坂戸山』である。そのふもとに向かって少し歩くと、魚野川に掛かった坂戸橋があり、この橋のたもとに、飲み屋が集中している。
  六日町の駅側から言って、川の手前側が賑っている。町の中を流れる川の両側に歓楽街が発達するという基本型である。実に、わかりやすい。明るいうちに飲み屋街を見てもわからないこともあるから、おおよその見当をつける。
 六日町の飲み屋の中では、昼の光の中で見ても、『一八』という店が秀逸だったので、基本的にはここで始めようという心づもりはした。
 宿は、飲み屋でたっぷり飲んでかなり酔って帰ることになっても楽な距離、これを基本に探す。料亭旅館風な「旨い物と酒」が揃っていそうな宿を探す方法もある。しかし、動かないで飲むのは前日済ましている。この夜は、外で飲んで帰って寝るだけである。そういうことで選んだ。選んでしまった宿は、徹底した「省エネルギー方針」の宿で、廊下も洗面所も手洗いも電気を消してあって、暗くて異常に寒々としていたが、それでも寝るだけなので充分である。
 宿のおばさんは、僕らが何者であるかかなり気にしていた。明らかにスキー客ではないし、山登りですかと聞かれたがそれは否定したので、見当をつけかねていた。そこで、モトさんが一言「視察です」と言い放った。もちろん、その頭に「酒の」という言葉はつけない。しかしこれで納得してくれたようで、それ以上聞かれることはなかった。

  六日町に酒肆あり

 温泉を引いている風呂に入って、小一時間横になってから、出かけた。僕の感覚からいくと、五時半には暖簾が出るはずで、開店と同時に入るつもりで宿を出た。
 酒肆『一八』の前に立つ。残念、開店は六時で、まだ暖簾が出ていない。無論、中は明るいのでモトさんが声を掛ける、入って待っていてくださいと言われた。ありがたい。
 気分が、スッキリとした店であった。フフン、こりゃいいな、である。
 頭を短く刈った人物が座敷に胡坐をかいてワープロを打っている。何だろうこの人は? この人が『一八』の主人で、その日の仕入れによって出せるものが毎日変わるので、毎夕ワープロで書いてテーブルに配るのである。なるほど、マメ。この主人が神棚に向かって柏手を打ち、ねじり鉢巻を締めて、六時に営業が始まった。
  酒は『八海山』のみ。それに決めてあるそうで、こういう明快さは悪くない。もちろん『八海山』は色々揃えてある。僕は、二級酒をぬる燗で頼む、モトさんには盛んに原酒の冷やを薦めるので、それを頼む。
 僕は、妙な癖で「おいし過ぎる酒は敬遠する傾向」がある。よく磨かれた純米酒などや、素晴らしい醸造香を持った酒。それも近年人気のある「ワイン」に似たような香りを持つ清酒を飲むと、何か澄み過ぎて、きれい過ぎて、困ってしまうのである。わざわざ言うまでもなく「旨い」のだが、それ程になるとどの酒も純になり過ぎて「やや似てしまう」と感ずるのである。そこで、少し態度の「悪い」、その造り酒屋の癖が出ているように感じられる酒を選ぶ傾向がある。
 態度の悪い、というのは酒が良くないということではないので誤解しないでもらいたいが、あまりに「おりこうさん」になっていない酒の方が好きなのである。
 モトさんは、澄んだ味わいの酒を中心に飲んでいて、いくら飲んでもスイスイ喉に落ちていく酒を選ぶことが多い。そういうことで、二人並んで酒を注文すると、それぞれになってしまうのである。それで酒の種類を色々飲めるということもあるにはある。
 主人は雑学の達人で、お客に「文化人類学・民俗学的酒の上の話」を振りまいている。それでいて、客同志の話を邪魔することはしない。
 カウンターの前に氷が敷いてあり、そこに魚が寝ている。そいつを刺身にするか、焼くか、それともどうした方が旨いか主人に聞いてしまうか、である。あの、若い店員の威勢だけが良くて素材の生きが全然良くないことの多い「炉端焼き」などとは違って、カウンターについた時に、さて、どの魚を「肴」にしてもらおうかという期待に満ちている。
  六日町というところは川があって、カジカ、ヤマメ、アユが楽しめるし、一時間半ぐらい車に乗れば海に行ける。主人は、毎日海上予報に注意して、まめに電話連絡をしているので、どこの船が出たか入ったかわかっていて、 良い物を仕入れることができると言っていた。本人自身「早く山菜食べたいねぇ」としみじみ言うぐらいだから、その季節にこの店の暖簾をくぐるのもまた良さそうである。
 僕らは、二級、一級、原酒、純米と飲んで、合計一升の『八海山』を飲んだ。勘定は、笑ってしまうほど安かった。もう腹がいっぱいで店を出たのだが、いつもの癖で、醸造酒のあとに一杯だけ蒸留酒を飲みたくなっていた。これは二人の共通の癖で、まだ酒は飲みたい状態だった。六日町の町並の中に、ワン・ショットにふさわしい店の明りを見つけることができなかった。
 それは、次回六日町に行った時に探す、ということにして、徹底した「省エネルギー方針」の宿に戻って、布団に潜り込んだ。

  翌朝、モトさんと僕は『一八』の勘定を繰り返し確認していた。どう考えても安い。
 一泊二日で東京から来るには少し高くつくが、二泊三日にして、夜は『一八』を基本に押えて、他には店の名前だけ聞いて入ってみなかったところをちょっと探り、昼は温泉にでも入って過ごすという「手」はある、という結論になった。
  朝食を済まして宿を出る時に、玄関で「視察は終りましたか?」と言われた時に、一瞬なんのことだかわからなかったが、すぐに思い出し、 「いやぁ、充分に視察しました」と答えてから外に出た。
  六日町の「友だち」は、実にいい奴だった。視察も大変楽しくできた。
 
 ※ちなみに、魚沼六酒というのは「高千代、鶴齢、白瀧、八海山、緑川、玉風味」をいうそうである。
 これらの蔵を訪ねたい場合は自分であらかじめ連絡を取ってからにしてください。見学歓迎の蔵もあれば、素人が来てもしょうがないと思っている蔵もあるはずです。拒否はしないが、親切にもできないということもあるでしょう。第一、造り酒屋の工場を一度や二度見ただけでは清酒がどうやってできるかわからないものです。それから、見学に行ったらできたての酒を飲ませてくれるもの、というような勝手な思いは持たないように。
 
【後日談】蔵元の社長と杜氏さんお二人を目の前にして「酒の味をどちらが決めているか?」という露骨な聞き方をするのは、大変失礼であるらしく、またほとんどタブーのような感じがあることを知った。それでも、一度は聞いておきたかったのだ。





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