東西南僕 14 酒は友だち その2
2002年10月28日(月)
■以下の文は、かつて『オー・ド・ヴィー/徳間書店刊』という季刊誌に掲載した原文に、掲載行数の都合で割愛した文章を付け加えたものです。文中の店がまだあるかどうかの責任は、負えませんので、ご注意下さい。

酒は友だち・その二
『富山満開烏賊甘露』(とやままんかいいかかんろ)

 春、富山湾に螢烏賊が押し寄せる時期に、富山の「友」に会いに出かけた。満寿泉、というのが友の名前である。

 富山、満開

  酒肆『真酒亭』のカウンターにモトさんと並んでいた。「真酒」というのだから、真剣に酒を飲まなければいけないようだし、真の酒を出す店という意味もありそうだ。
 富山は空港を利用したことはあるが、街は不案内なので、出かける前に情報を仕入れてから行った。どこに行ったら確実に『満寿泉』に会えるか、である。
 情報雑誌では、地酒を充分に楽しみ季節の肴を味わえる店の「現在の情報」が欠けている。そういう場合、蔵元に聞いてみるという手がある。ズバリ核心を突く正攻法だ。 東京の仕事場から『満寿泉』に電話するととてもハキハキした切れ良い返事で、『真酒亭』と『銀鱗』という二軒の店の名前を上げてくれたのである。これで、間違いなく『満寿泉』を飲みながら肴をつつくことのできる店を確保したことになる。
 羽田で会ったモトさんは、やや元気がない。前日一日、高熱を発して寝込んでいたというのである。それを聞く僕は、激しい下痢がすでに三日目を迎えていた。「風呂と甘い物」が大嫌いなモトさんが、温泉につかることにしようかというのだから、気力がひどく衰えていることは間違いない。長いつき合いで、 モトさんが風呂に入りたいと言い出すのを初めて聞いた。僕は僕で、体内にこれほど水分があるものだろうかと驚くほどの量を流出させて、ヘトヘトである。しかしそれはそれ、富山に酒が待っている。
 どうにも、酒の決死隊である。

 富山市内、繁華街の近く、城址の横を松川という川が流れている。この川の岸、「土手」というには整備され過ぎているので岸ということにするが、この両岸に植えられている桜が、ちょうど満開であった。「おあつらえ」である。前夜は雨だったそうで、僕たちの着いた夜が花見の最もにぎわう夜になりそうだと話している。穏やかな日和で、ハラハラと散る花びらが松川の川面に浮かぶ。ゆるゆると流れ、時には少しうねり、花びらは流れのままに運ばれていく。町の人達が放したという鯉がぬっそり泳いでいたりするのである。「松」川に、 「桜」が散って、下を「鯉」が泳ぐ。あああ、日本だ。
 『真酒亭』はあらかじめ見当をつけていなければ、発見できないような店だった。五時少し、暖簾を潜ると一番の客であった。酒肆 『真酒亭』の酒は、全て純米で、燗はしない、と言われた。こういう風に、態度がしっかりしているのがいい気分である。で、特に頑固でもなんでもない。いい酒飲みは、歓迎してくれる気分がある。
 『満寿泉』の純米吟醸を口に含む。何ともいい肌触りである。体力が衰えていてなお飲める清酒というのは、当りが柔らかいと言っていいような気が、僕はする。酒が入って、気持が少し揺らいでくる。この感じが楽しくて酒を飲んでいるということがなくはない。酒呑みの位でいえば、泥酔が上の部類ということはないのであって、やはり上は「ほろ酔いの持続」ではないか。
 『満寿泉』は吟醸酒で、充分旨い。それを口に運びながら、モトさんと酒を誉めあっている時は「この吟醸酒、名横綱とは言い難いが、大関クラスは充分にある」ということになった。多くの人の記憶に残る大関というのは、やはり非常に愛される魅力を持っているということになる、ということである。
さて、『満寿泉』を飲むというんならこちらも飲んでみなければと、主人が出してくれた「大吟醸」を口にして、舌の上を流して、のどに流れ込むのを楽しんだ瞬間、「吟醸」が前頭に下がってしまった。
 「あ!」「ん!」というような音を出して、うめいてしばし無言ではあったけれど、清酒「番付編成委員会の二人」は、大吟醸を堂々たる横綱にしなければいけなくなって、必然的に吟醸の番付を下げる必要に迫られた。大関の上に突然横綱登場ということになったからといって、大 関を前頭まで下げる必要はないのではないか、と思うかもしれないが、それぐらい「大吟醸」の「大」が偉大なのである。
 「馬鹿、それは当たり前だろうが」と言われればその通りである。で、僕らはどうしたかというと、「大吟醸」を確認しただけで、飲み続けたのは「吟醸」の方だった。
 「大吟醸」は、酒呑みにはつらい。なにも『満寿泉』に限ったことではないし、この酒を悪く言っているのではない、旨すぎてたっぷりし過ぎて、食べ物(米のエキスというような意味で)に近い充足感をもたらすので、ゆっくり長く酒を飲み続けたい僕らのようなタイプの者には、困るのだ。
 酒の肴として、腹にたまらない適度な塩加減の物を突き、長い時間飲み続け、ほろ酔い状態を持続させようというマラソン飲酒派に、「大吟醸」は、最初の一合で、終わってしまう感じがあって困るのである。そういう意味である。
 こういう酒を簡単に「旨過ぎて飲めないよ」といってしまう。旨すぎることが、鬱陶しいということがある。
 酒造りの方々に「わかってない」といわれてもかまわないが、実は造っている人達がそのことをわかっていると、僕は思っている。

 『真酒亭』に、この店でしか飲めない酒、というチラシが貼ってあった。店のご主人が蔵元と特別な関係で、一般には売られていないが特別に分けてもらって、この店だけで飲める、という類かと思った。聞いてみると、違っていた。
 『みゃらくもん』という名前の酒。これは「身は楽な者」が訛った言葉のようで、地元では道楽者、遊んでばっかりいるような奴、といった意味合いで使われていると教えてもらった。
 その『みゃらくもん』は、自分たちで造った酒だと言う。
 仲間を募って、減反している田んぼを借り、田植え、草取り、稲刈りを自分たちでやって、その米を酒造会社に依頼して酒にしてもらっているというのだ。米は、名の知れた酒造好適米ではなく、富山の人が普通に食べている米。そういう米で、何でもなく日常的に飲んで楽しい酒を造ってもらったっというのである。これが「ほのぼのと」旨い。鑑評会での金賞を狙うだの、特別凝った造り方をするだのが必要がなければ、普通に食べる米をある程度精米すれば何の問題もなく「清酒」になるのだ。これは意表を突かれた。
 仲間を募ったときに、費用を分担するために「口数」に応じて資金を出す。自分たちで育てた米を酒にしてもらって、その酒を全部引き取る。その酒を口数に応じて仲間で分け、『真酒亭』のご主人のように商売をしている人は店で出すというわけだ。その酒を飲むことができた。
 話が面白い上に、酒が旨い。こういう風な「この店でしか飲めない酒」を味わったのは初めてだった。

  烏賊

 もちろん、螢烏賊は食べた。姿のまま出てくる刺身である。
 「螢烏賊」という、小さくてかわいらしい烏賊、全国的に言えば珍しい烏賊は、その珍しさから人々の興味を引きつけてはいるけれど、本当に旨い烏賊なのだろうか、という風に疑っているところが僕にはある。
 「螢烏賊の全身」を丸ごと食べると、体が華奢なわりに「目」が大きいので、口の中でゴロゴロする。小さいなりにカラストンビもある。この、歯に障る感じがどうにも好きになれない。それに外側の身に対して、内臓がたっぷりありすぎる。新鮮だから生臭いことは全く無い、それは本当だし、噛み心地もかなりはっきりして、烏賊らしい味わいも少しはあるが、つぶれた内臓の広がりが多すぎて烏賊の身を食べている楽しみがない。
  次の日、螢烏賊といったら「ここ」という、滑川の港まで行った。そこいらじゅう「螢烏賊」の看板で、歩道のタイルにも、公衆電話の箱のうえにも烏賊がいた。船に乗って夜の海に出る螢烏賊観光には参加しなかったけれど、港の食堂で昼の食事をした。
 「螢烏賊定食」である。螢烏賊だらけのおかずの中の螢烏賊は、刺身、茹でた物の酢味噌和え、沖漬けである。その刺身は全身ではなく「死体を解剖して、別けてある」のだ。
 烏賊の外と中を外して、 目とわたを除いたものが、力無く並んでいる。こうなると僕が前の晩に感じた「歯に障るもの」は除かれていて、刺身を食べている感じはよく出る。が、螢烏賊の悲しさ、身の部分が小ぶり過ぎるので、三バイ分ぐらいを一緒に食べなければいけなくなる。それにしても身は極く薄いので、歯ごたえが無い。ガムを一枚だけ噛んでいると口の中に充足感がなく奥歯に引っ掛かるだけという感じになったりすることがある。あれと同じ感じになるので、これも満足感がない。
 螢烏賊が、解体されて出てきたので、地元の人に質問したのだが、地元では昔から「解体して、外側と、ゲソだけを刺身にして食べる」と教えてくれた。安くて大量にある地元だからではなく、やはり目が障りになるらしい。
 サッと湯がいた螢烏賊の酢味噌和え、これが螢烏賊の魅力を楽しませてくれるような気がした。味噌がどう、酢の加減がどう、砂糖がききすぎている、などなど味噌の味は色々あるかもしれないが、螢烏賊の面白さを楽しむには、これがいいような気がする。
 沖漬け、モトさんはこの烏賊の全てを食べるという点で、また酒に良いという点でも、これがいいという。確かに、生の螢烏賊の魅力を全部引き出しているのは沖漬けが一番だろう。

 甘露

 その夜は『銀鱗』へ出かけた。いやはや、巨大な店であった。「体育館で酒を飲んでいるような」というやつだ。
 「コ」の字形の長い辺に二十人ぐらいがゆったり座れる席で、コの内側は生簀。活造りの注文を受けると若い人がそこから魚をすくい、板場に渡す。コの字の開いている側の前方にはお客に対面するようにして板前がならんでいて、生きた魚はそこでさばいている。
  四月のテーマ酒は『満寿泉純米生酒』だった。この店では、満寿泉がその月々のテーマにあわせて提供する酒を出しているという話だった。旬の魚にふさわしい満寿泉を出しています、というような説明が少し欲しい感じがした。
 いきなり「今月は、満寿泉の純米生酒です」は唐突すぎる。冷えた純米生酒をゆっくり飲みながら、献立表を見る。
 『満寿泉純米生酒』は、とても優しい、爽やかな酒で、元気が出てくる酒だ。今夜は飲むぞ、という意味の元気である。四合瓶がそのまま出たが、味わいながら飲んでいると温度が上がってきて「甘さ」が感じられるようになる。生酒の新鮮な魅力を楽しむには、白ワインのように氷水の入った器に瓶ごと入れてくれたらいいなぁ、とも思ったものだ。
  大きな店で、活造りを主体にしている店。コの字の内側を、春らしい色の和服の仲居さんが忙しく動き回っている。生簀、巨大な店内、沢山の仲居さん、活造り主体。そして、コの字のカウンターにいる客を眺めるとほとんどが社用風。日頃、こういうタイプの店には入らない僕らは、食い物が旨くなかったら、すぐ出よう、と話がまとまっていた。
 しかし、僕らは出なかった。「店がデカイわりに(食べ物が丁寧にこしらえてあって)、抜群に旨い」ので、腰を落ち着けてしまった。筍土佐煮、真鱈子付け、螢烏賊活造り、げんげ空揚げ、白海老昆布〆め、げんげ酢漬け、 白海老かき揚げ。
 こういった「結構な肴」で酒を飲み続けた。「げんげ」は富山湾で獲れる深海魚。白海老は、駿河湾の桜海老と同じ種類と地元の人がいう海老で、これだけでは旨いと言いかねるのだが、この小さな海老の身だけを揃えて昆布の間に挟んで旨味を加えたことで、酒の肴として上品な味わいの一品に化身していた。さて、問題は「螢烏賊の活造り」である。
 問題の、というのは、こいつを活造りにする必要があるだろうか、ということが一つ。もう一つは、客がこれを食べる時に思いがけないことが起きるのを店の人が注意してくれないことが一つ、である。
 螢烏賊の活造りは、そのまま出てくるだけなので正確には「踊り食い」に当る。濃紺のガラス鉢の中に螢が三バイ暴れている。頭上からの照明を両手で覆って、箸で烏賊を突くと、その名の通り器の中で光る。あとで考えれば、そうして「螢」になってくれる烏賊を生かしておき、時おり光らせながら酒を飲むのが「粋」なのかもしれないが、僕らは食べにかかった。
 醤油と生姜、これが来たのだからこいつで食べた。ところがです、烏賊が生簀で生きていて器の中でも元気でいるということは、水が塩水であるということを思い起こさなかった。烏賊は呼吸しながら、塩水をたっぷり体内に取り入れているのだった。それに醤油をつけると、思いきりショッパくて、結構な味とは言えないのである。このことを注意してくれればよかったのに、と僕は思ったものである。だから、僕はあとの烏賊は生姜を乗せるだけで食べた。旨かったか、と言われれば「わからない」というしかない。
 常日頃入ったことの無いタイプの、大きくて社用族が沢山いる店にも馴染んで、充分楽しい時間を過ごした。ここは、旨い店だ。そのあと、また酒だけ飲みたくなって、酒肆『真酒亭』に戻って、満寿泉以外の富山の酒を飲み、「友」の素晴らしさを味わった。

 満寿泉以外では、『医王の舞』という酒がなかなか素晴らしい。『成政』という酒を造っている蔵元の酒で、こいつは「おお!」と言ってしまった。『成政』もいい。もう一つ『吉乃友』の純米酒が、とても軽快でいい。純米酒、として構えたところが全く無く、日常的に飲む純米酒として、見逃せない感じがする。




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