東西南僕 16 酒は友だち その4
2002年10月30日(水)
■以下の文は、かつて『オー・ド・ヴィー/徳間書店刊』という季刊誌に掲載した原文に、掲載行数の都合で割愛した文章を付け加えたものです。文中の店がまだあるかどうかの責任は、負えませんので、ご注意下さい。

酒は友だち・その四
昭和時代に抜けられる」、焼津浅草通り。

 焼津の『磯自慢』と友達になったとモトさんが言う。僕も会ってみたくなった。その旅から帰って、この文章を書くために少し思いを巡らせると、自然にニタニタしてしまう。

 酒の名前に対する偏見

 若い頃、岐阜の郡上八幡で『母情』という酒を見た時、その名前だけで、あまり飲みたくない気がした。何だかベタッと甘そうな感じがするでしょう。ところが友人と飲みに行った先で出てきたのだその酒が、(しょうがなく)飲んでみたら、あはは、これが旨い。その名前と、最初の印象が良かったせいでこの酒のことを忘れたことがない。
 数年前、長野県の飯田市で『夜明け前』を奨められた時も、やな名前だねぇ、と思ったものだ。偏見というのはそういうものである。どうしたって重たるそうな気分の酒という感じでしょ。ところがその純米酒を飲んでみると、イインデスわ。
 そういう体験を何度かしていても、偏見というのは無くならないもので、モトさんと初めて『磯自慢』の名前を見た時に、二人のヘソ曲がりは「自分で自慢なんて言うのは、ロクなもんじゃねぇ」と言ったのであった。もっとスッキリした名前がつけられないもんかねぇ「ふりかけ」みたいじゃないか、などとも言った。
 しばらくたって、旅から帰ったモトさんに会うと、「なんてったって磯自慢だよ、自慢するだけのことはあるわ、今度焼津に飲みに行こう」と相好を大崩しにしているのである。こんなものである。こういうことの繰り返しをしているうちに、偏見の修正が行なわれたりして、ラベルの配色や文字、名前だけから「外れない酒」を探せるようになるのである。もちろん、いつも大当りとはいかないけれど。

 逸品「たたき豆腐」

 その『磯自慢』を飲んで、鮪を食べる。それも焼津で食べる鮪だから文句があるわけがない。といって「良い酒を飲んで、鮪の中トロを食べました、どちらもおいしかったです」というんじゃ酒飲み界の小学生である。
 僕らは『どんた久』という店のカウンターに居た。付き出しの後、セグロイワシの刺身を食べて「泣いた」あとに注文した、たたき豆腐という代物で再び「泣いた」。
 四角い小鉢に、奴っこ豆腐が先に入っている。この上に、鯵、鰹、鮪(の三種混合だと思われる素材)を包丁でよくたたいて、薬味を混ぜたものが豆腐を覆い隠すようにたっぷり乗っている。この「たたき」は注文してから切り分けてたたいたものだ。その全体に、ただの醤油ではないタレがやや多めにかかっている。魚は文句なくいい、薬味の加減が絶妙、豆腐もなかなか宜しく、量も充分、たれが豆腐にも魚にも合うように仕上がっている。普通であればこれだけで一晩飲んでしまいそうな肴である。
 そうか、こういう肴がありうるんだ。奴っこの上にたたきを乗せるということなら思いつく人はいくらもいるだろうし、どこかで出会っていてもおかしくないのに、などと話ながら、箸の先で「ねっとりしたたたき」をまとめてたれを少しつけて、それを豆腐の上に乗せ直して口に運ぶ。あははん。冷やの『大吟醸磯自慢』をすする。ため息をつく。
 初めに、酒を下さいと注文した時は「普通の磯自慢」が出た。そのあと「大吟醸」を飲んでみようということになった。四合瓶を飲んで、満ちてきたので再び「普通」の方に戻った。「大吟醸」を沢山飲み続けると、充分過ぎて、満たされすぎていっぱいになってきてしまう。それほど「大吟醸」は豊潤である。
 どうしても鮪を食べたかったし、焼津にはふんだんにある「鰹のヘソ」、鰹の心臓も食べたかったので、酒を普通に戻した。ひと串に心臓が二つ、半分に切り開いてあるので四切れで、塩焼きである。魚類の心臓なのに牛の「ハツとレバー」を合せたような味。焼津の飲み屋には、必ずあるといっていい。
 ゆっくりゆっくり味わった『大吟醸磯自慢』の瓶を回してみると、杜氏・南部、瀬川なんとかさんという名前が印刷してあった。ごちそうさまでした、と言いたい。名前に「自慢」という言葉を使う価値充分にあり、です。

 昭和時代懐古居酒屋

 次の夜。藤枝に居る僕の友人が「焼津に行ったらここ」と断言した『寿屋』の客になっていた。 飲み屋探しの達人、初めての町でもほとんど外さない人。そういう人でも『寿屋』を見つけることはできないだろう、と思う。その店がある通りに入って行きそうにもない。例によってモトさんが、店の前で提灯のスケッチをしている間に僕は店に入った。
  昭和の初めに建った飲み屋で、同じような店が周囲にはいくらもあったそうだが、今この町内で残っているのはここだけ、になってしまったらしい。焼津の港で仕事をする男たちを相手にした酒の店、女の店がずっと並んでいた名残り。
 「懐かしい友人の家の、磨き込んだ台所で酒を飲んでいる感じ」である。いや、感じではなく、実際そうだと言い切ってもいいぐらいだった。馴染むのに一瞬で充分である。
 おじいちゃんとおばあちゃんが昔ながらの料理を出してくれ、かいがいしく働くお母さんが煮物の火加減を見ている、お父さんは気配で客の様子を全て察している、という雰囲気の中で、旨い酒を飲みながら友人が帰ってくるのを待っている、という味わい。

 町内の常連は裏口から入って来て、勝手がわかっている居間(小座敷)の方にスッと入って行ってしまう。僕らのように「何々はありますか」など誰も聞かない。刺身と酒、ヘソと酒、と言いながら履き物を脱ぐ。
 天井が高く、空間が澄んでいる。刺身、煮魚、焼き魚が主体のせいか、揚げ物の油が店 内をベトつかせているということが全くない。 僕が頼んだビールの小瓶は、氷冷冷蔵庫から出てきた。皿や丼、鉢類が鼠入らずの中に重ねてある。箸が割箸ではなく塗り箸。ヘソの塩焼き、太刀魚の焼き物は七厘を使って焼く。
 店の戸を開けて風を入れ、七厘の火口を風上に向け、炭の「遠火の強火」で焼く。
 モトさんが入ってきて、店内に視線を走らせてから、酒を注文した。酒は『杉錦』。
 姿のいい、昔風な銚子に入って出てきた。
 口に含んで、独特の味がする酒だ、と呟く。 光りがいいね、とモトさんが言った通り、黄色い電球の光が店を満たしている。その電球が棚や仕切りにはまっている、よく磨いたガラスに反射して美しい。
 あんまり良くて、楽しくなってしまっていて、くつろいでいて、いい夜が約束されたことが瞬時にわかってしまって、何か言う必要がない。何も言えないのではなく、やはり、言う必要がないのだ。
 「いいね」
 「いいなぁ」
 「この酒、いいよ」
 「磨りガラスいいね」
 「この店いいよ」
 「いい」
 「最高だよな」
 「最高だね」
 それぞれに酒を飲んできた四〇代の男が、こういう店があったらいいのにな、と思い描いて来た店に、現実にいるのである。しかも客を緊張させるところが全く無い。話をする必要がない。柱だけでなく、木でできている部分の角がみな丸くなっている。それは人が触って丸くしたのであり、その人は例外なく酒を飲んでいたはずである。
  昭和時代の台所と居間にあった物、そして「四〇代」が生きてきた間に消えてしまった物が、納まるところに納まってずっとそこにあるままなのである。

 僕が、暖簾が出るのは何時か電話で聞いた時「今日は父がいないので、いつものようなものを出せるかどうか、わかりませんが、ご来店ください」と息子さんが言った。長年の常連は親爺の肴に惚れて来るのかもしれない。そのことを心得ているから若旦那はそう言ったのだろう。しかし、若旦那も、黙々と包丁を動かし、網の上の魚を裏返し、炭を追加している。この人が、この店を充分もたせてくれる、と思う。また行ける、安心。
  僕も一杯のビールのあとは清酒。『杉錦』のぬる燗。冷やで飲むより、ずっと主張が強くなる。できるだけゆっくり楽しもうと心がけている酒も、徐々に本数が増える。『寿屋』は、空になった銚子を卓上に置きっぱなしにしておく方式である。
  僕にこの店を教えてくれた友人が、藤枝から来てくれた。彼が『寿屋』ではかなり知られていることもわかったし、彼も常連で、藤枝から六キロの道をタクシーでやって来ると知った。彼はこの店があることを理由に、焼津に住んでもいいと借家を物色していると言う。いや、モトさんも「焼津に住んでもいいな」と何度か口にしたぐらいである。
 民俗学をやっているその友人は、大学の時に一緒だった人物で、中退仲間である。1969年には、民俗写真家という肩書きの名刺を持っていた。旅する男であり、フィールドワークの男。
 モトさんの顔のそばかすをみて、そういうそばかすの男は「焼津では猛烈にもてる」という話になって、話がよじれていって大笑いした。そばかすを「くすべ」というのだそうだ。
 その友人が、焼津の夜のコースを案内すると言ったので店を出ることにした時に、卓の上には皿が四枚と銚子が十四本あった。

 仕上げは七面鳥と亀

 焼津の夜のコースというのは、『寿屋』から歩いて港まで行き、埠頭に出ている屋台のラーメンを食べることであった。もう三十年間もそこに店を出しているという老夫婦の屋台。この夜は、風が強まって小雨が叩きつけるように降り出したので、他の屋台は出ていなかったが、もう二軒出るのが普通だという。
 モトさんと僕だけならこのラーメン抜きで、仕上げの酒(蒸留酒)を飲む店を探しにかかるのだが、案内人がいるというのは楽である。あと一杯だけ飲みに行こうと、連れて行ってもらったのが『雑酔』という店。地元の文化人が集う店、という肌合いだったが、幸い誰もいなかった。文化人は苦手である。
 モトさんは仕上げにかかっているので『ワイルド・ターキィ』、僕ももう仕上げなのだけれど『初亀』があることを発見したので、それを飲んだ。すでに酔ってから別の酒を飲んでも鮮やかな印象は残らない。それでも一度飲んでおくのと飲まないでは、当り前だけれど、全く違う。味見の一杯だけで終わらなかったのは、酔ってもなおスルスル入ったからである。黒ハンペンを、七厘で焼きながら、唐辛子醤油を少しつけて食べ続け、酒を飲み続け、次第に声が大きくなったことをはっきり覚えている。

 次の朝、ビジネスホテルの朝食を「逃れて」、焼津魚市場食堂に行った。その名の通りの場所である。九時半までは朝食の営業、朝から鰹の刺身なんかを充分食べてしまった。酩酊の奥で丸くなって寝た身には、少しご飯の量が多かった。いずれまた、今回の三軒を訪ねるつもりでいるので、その次の朝ここの食堂に行った時は「ご飯を少なめにしてくれ」と言おうと思う。
 それにしても、都会で「旨い魚と旨い酒」に出会う時の価格と、店の態度の横柄さを考えると、焼津は住みたくなる町である。
 ただし、日中歩き回っても特に見る物はなく、古い通りを歩くと、四〇代の僕らでもかなり時代を遡った感覚に捉われる町である。だから、特別面白くはない。特におばさん、ギャルには面白い町ではない、こう書いて、いい店を守っておきたくなる焼津である。

【後日談】
 『寿屋』は、抜群にいい店だった。雑誌で紹介してドッと客が押し寄せては常連さんにも悪いし、店が荒れるといやだと思い、電話番号も地図も載せなかった。読者の反応は、半々。店をちゃんと載せるのが筋だろうというのと、そんなにいい店なら書かない方がいいというものが拮抗した。ただ、店のあるブロックだけは暗示しておいた。
 そうしたら、さすがに酒飲みは「いい店を探す」もので、私は『寿屋』に行き着いたぞというはがきが来た。そして、その御仁、あれは雑誌で紹介しない方がいいと言ってくれていた。それぐらいに大切にしておきたい店である。
 それから、静岡の酒があまり良くないと言われたのは昔の話で、静岡は一大酒どころと断じてもいい。個性的であり、旨い。みごとな酒が揃っている。 








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