東西南僕 24 東京へ行ってこい!
2010年02月05日(金)

 東京へ行ってこい!

 住んでいるのは埼玉県の川越市だが、毎日東京港区に出勤している。そして、仕事で東京都内を取材することがある。
 長年取材仕事をしてきて、相手と場所が決まれば、コースを設定し、ビジネスホテルを探して、飛行機であれ新幹線であれまずはJTBに行くというのが「取材の定番」なのだが、東京都内となるとずいぶん違う。地下鉄で行けてしまう。
 都内の取材で惜しいのは、初めての土地で取材するときのように空き時間に「出かけた土地」を散策するだの、夜の飲み屋を探しておくという楽しみがないこと。東京都内だと、取材が終われば勤め先に戻って、バッグに本を入れて帰宅するのみである。
 それだけは味気ないけれど、人に会って思いもかけない話を聞ける喜びはどこでも同じ。東京の方が圧倒的に大勢の面白い人がいるので、取材地としては東京も悪くない。もし長年の取材仲間と一緒であれば、「夕方仕事が終わるように」予定を組んで、取材先に近く、日頃は行かない地域の居酒屋で軽く一杯できるように算段するのだが、真面目一辺倒のクライアントが同行、しかも若いカメラマンと組むと、そういう下心を満たす機会もない。

 ある年の秋口、東京の両国、向島周辺を紹介する新聞の特集に関わることになって、その一帯に住んでいて、話の面白そうな人にところに取材に行くことになった。私が相手を決めるのではなく、すでに決まっていて、そこに行って取材してこいと「言われて」行くことになった。

 その一・両国 ベッ甲屋

 最初に行ったのが、ベッ甲屋さん。ベッ甲の専門店である。
 鼈甲、という文字は私には「直筆では」とうてい書けない字。
 ベッ甲は「タイマイ」というウミガメの甲羅であること。このウミガメ、ワシントン条約で輸出が禁じられているはず、ということ。また、ベッ甲の髪飾りなどが、江戸時代非常に高価な物だったことと、芸者が本物のベッ甲細工を髪に挿しているのは一種の「誇り」であったこと、以上が私の、ベッ甲に関しての知識の全部だった。
 そこで少しずつ聞いていくことにした。

 取材に応じてくれたのはその店の三代目。この道九年で、三十代後半。
 一般にベッ甲づくりは何年ぐらいで一人前になるかを聞くと、ほぼ一〇年とのこと。ということで、三代目はそろそろ一応のことはできるあたりに来ているということになる。商品を作っているのですでにプロではあるのだが、時に先代である父にあれこれ指摘を受けることもまだあるとつぶやいていた。
 数年のサラリーマン生活を経験していて、「父の代でベッ甲づくりを絶やしてしまうのはもったいない」と思うようになり、家に戻って稼業(家業かな)を継ぐ気になったそうで、昨今なかなかこういう若者がいない。
 「昔のような親方と弟子の、徒弟制度的修業はなく、きちんと父が順を追って教えてくれました。技を盗めなんてことはありませんでしたし」と。これに、深く感謝しているのがまたいい。
 「初めから本当のベッ甲に触れることができて良かったです」という。
 「じゃぁ、以前はどうしていたんですか?」。

 昔は、まず鰹節で練習して慣れてからでないとベッ甲に触らせてくれなかった。鰹節の背肉側の赤っぽくて密度の高い部分の質感がベッ甲と似ているそうだ。そういう話を聞くと職人の社会独特の修業法があるものだとわかる。あくまでも似ているのであって、作業の手順を覚えるのに鰹節を使うという程度。
 工程や、形にする方法は教わっても、手にした素材を工芸品にできるようになるまでは自分の経験を積まないとどうにもならない。全工程の力加減、熱加減など。それに道具は全部手製で、自分だけが使いやすいように作る。これは工芸方面ほぼすべてに当てはまるとわかる、職人仕事をしているたいていのところで同じ話を聞かされている。例えば、父親と息子では力が違うのでそれを計算に入れた切れ味を整え、自分の手に合った大きさの道具でないと思い通りに仕事ができないということだ。
 ベッ甲細工の最初は「靴べら」づくりだそうだ。靴べらの形を切り取って、表面をきれいに磨いたり、くっつけたり曲げたりと、仕上げていく段階で、ベッ甲細工に必要な基本技術が習得できるそうだ。

 タイマイ以外のウミガメの甲羅は細工には使えないという。あのような透明感がない。また、タイマイの甲羅だけが「膠質」を含んでいて、熱をかけるとそれが溶けだすので、重ね合わせて密着でき、また曲げることもできる。
 タイマイの甲羅は組織が何重にもなっているわけではなく、一枚だそうだ。甲羅のパーツは13枚と数が決まっている。あの亀甲模様に別れている数が13ということ。背中の甲羅、他に周辺部分は「ガラ」、オシリの端の部分は「ツメ」、また腹の側の甲羅は「腹甲」という。このすべてが利用できるとのこと。腹の側も使えるとは思わなかった。そういうことを教えてはもらったものの、ベッ甲細工を見て「これは、ガラを使っていますね」などという機会はないだろう。この業界用語は、まぁ使う機会がなさそう。買いに行く機会がなさそうだもの。
 タイマイはワシントン条約に含まれる稀少動物だが、キューバあたりでは相変わらず捕まえて食べているということで、甲羅も売りに出されているらしい。そういう情報はあるのだが、それならキューバに注文して輸入というわけにもいかない現状。もう、おいそれと購入はできない原材料である(日本では1992年限りで輸入禁止)。これについて、このあとどうするんですか? と聞けば。
 「今のところ私が一生使う分ぐらいのストックはあるんです」と三代目は言う。

 ベッ甲細工では、甲羅のどの部分を持ってくるかが、まず大切。甲羅の中央部分と周辺部分と、尻の上の部分は厚さや質感に違いがある。作るものによって、黒い模様がある部分と、ベッ甲色が透けて見える部分を選ぶわけだ。
 最大の厚みで5mm程度のベッ甲だが、櫛やこうがい、眼鏡フレームなどを見ると十分な厚さを持っている。それが先に書いたように、ベッ甲の両面を磨いて熱をかけ、膠質を溶解させて重ねてつくり出した厚みだ。それほど強度が必要のないブレスレットなどでは二枚張り合わせとのこと。
 膠質を融かし出して溶け合わせ、冷やせば「継ぎ目のない」少し厚みを持ったベッ甲になる。これを何度も繰り返して必要な厚みをつくり出すというわけだ。熱をかけるとベッ甲色が微妙に変わるそうで、熱のかけ方にもコツがあるらしい。また、タイマイの個体によって微妙に甲羅の質感が違うともいう。
 いずれにしても、あっちから少しこっちから少し取り集めて、透明な部分だけを重ねたベッ甲細工はどうしてもいい値段になる。黄色で透明な部分は、金と同じぐらいの価値があるといわれて来たそうだ。なにしろ、透明な部分は甲羅の約10%しかないのである。
 また、黒い模様入りの部分も、イヤリング、カフスボタンのように対になっている細工物は、甲羅のあちこちを探してほぼ同じ模様を見つけてそこを切り取って対象模様に細工しなければいけない。これはこれで、材料の観察とセンスが重要。

 祖父の代からずっと売れ続けて人気がある物といえば、やはり芸者が使う髪飾り。「櫛、こうがい、かんざし、帯留め」といったもの。このあたりが江戸時代から変わらぬ人気であり、高級品であるベッ甲のそういう物を持つのが「粋」である。芸者の「伊達、心意気」として、本物のベッ甲の髪飾りをしていないといけなかった、という。三代目がいうには、芸者さんなど「櫛の歯が一本ぐらい欠けていてもいいから、本ベッ甲の櫛をさしたい」というぐらいだそうだ。派手ではないが、それこそベッ甲色は地味なようでいて、じっくり見るとやはり目を引く美しさである。それを腕のいい職人がああしてこうして細工を施す。店にあった作品の値段を見たが、おいそれと手がでるような価格ではなかった。
 芸者さんにベッ甲の櫛を贈れるような旦那になってみたい気がしないでもない。ふふん。
 江戸時代からのベッ甲工芸品を少しずつ展示している小さなショウウインドウがあって、これを覗いたら、その技の巧みなこと。じっと見入って、うなってしまった。素人でもわかるほど芸が細かく美しく、形がいい。どれも非常に厚みがあってベッ甲を贅沢に使っている。しかも、ただ飾っておくものではなく使い込んで味を出していくというのが、こうした日本の工芸品のいいところ。
 例えば、先代が作ったベッ甲の眼鏡フレームは、「もと首相池田勇人の眼鏡のような」といってわかる人は少なくなったかも知れないが、昔の偉い人の眼鏡枠そのもので堂々たる透明なベッ甲色の太枠だが、三代目が今風にデザインしたものは、流行の形でベッ甲に黒い部分が入ってこれはこれで洒落ている。その新しいデザインは、左右の枠が対称模様にはなっていないが、もし「つるの部分と、レンズ枠」を対称模様にするとなると、手が出にくい価格になってしまうことは想像できる。
 同じものでも、それぞれに時代を感じさせるデザインのベッ甲細工を見ることができた。なるほど、技は伝承されるがその時々で生み出されるものは時代を反映しているというわけだ。







 
 その二・両国 ちゃんこ屋

 取材二軒目は、ちゃんこ「巴潟」。ともえがた、こういう名前がいい。昨今の相撲取りのしこ名とはわけが違う。
 取締役統括部長が取材に応じてくれて、「ちゃんこを名乗った中では古い方です」と教えてくれた。

 現役時代のしこ名を巴潟といった力士が昭和十五年に現役を引退し、自分が育った部屋である高島部屋を一時預かった。その後、名跡である友綱の九代目を襲名して自分の部屋を持った。名横綱、姿のいい横綱として名を馳せた吉葉山の親方だったのだ。巴潟が吉葉山など弟子と一緒にちゃんこ鍋を囲んでいる写真が残っている。定年まで親方として友綱部屋を続け、昭和五十一年定年で相撲界を引退。その年のうちに、部屋のあった場所にちゃんこ「巴潟」を開店。現在の社長は、巴潟さんの息子さんである。
 余談だが、団塊の世代は「吉葉山」という横綱を知っているのがギリギリぐらいだろう。知っているのであって、テレビで吉葉山の相撲を「見ては」いないのではないか。まだテレビ普及していないのと、昭和三十三年初場所で引退しているから。

 さて、昭和五十一年は1976年で、当時まだちゃんこ鍋というのは相撲界独特の料理だと思われていて、ほとんど一般には知られていなかった。ということで客は、親方の知人友人、タニマチや相撲関係者がほとんどだったそうだ。また雑誌で話題に取り上げられることもなかったし、テレビ番組の関心も向かない時代だった。
 開店して、四、五年目ぐらいからポツポツと取材も来てくれるようになった。そうして雑誌に載るようになる。「九年目かそこらでしたか、やっと鍋料理のジャンルとして知られるようになりましたね。昭和六十年ぐらいになってからかなぁ。雑誌、マスコミに登場して、すっかり知られるようになったのはこの十年かもう少し、といった具合なんですよ」といっていた。
 「ちゃんこ」は相撲界では、単に「食事」のことをいうのだが、その中で一番重宝されるのが鍋料理ということもあって、相撲部屋の「鍋料理」をちゃんこ鍋というものと今も一般に思われている。料理当番のことをちゃんこ番ということから考えれば、鍋料理の名称ではないとわかるのだが、そこまでは考えない。
 この食べ方が「重宝」というのは、野菜がたっぷり食べられるということで栄養のバランスの点でも優れている上に、皆でつつきながらの食事になるので、一つ釜の飯を食うという部屋の連帯感も醸成できるからといっている。
 本音を言えば「準備も簡単だし後片づけも簡単だから」ともいう。番付の上位から順に食事をして、フンドシ担ぎ(古いなぁこのいい方)まで食べ終えると案外時間がかかるのだろう。それでも鍋なら、具があればやっかいはない。また、地方巡業でその土地土地の後援者が届けてくれる食材を鍋に入れて皆で食べることができるという利点もある。
 どの部屋にもその部屋独特の鍋があって、ちゃんこ番は、おかみさんと先輩に教わりながら作り、味を覚える。部屋の伝統的の味は受け継いでいくものでもあるそうだ。
 学生横綱だの、場所ごとに番付を上げてぐんぐん出世していくような有望力士は「ちゃんこを作るのがヘタだ」というのが面白い。ちゃんこ番をほとんど体験しないで十両・幕内にいってしまうということだ。

 もともと友綱部屋のちゃんこは「ソップちゃんこ」。ソップはスープのことで、鶏ガラスープ。醤油味のソップが基本で、それがおいしいと関係者には評判だったそうだ。
 力士の体型で痩せた力士を「ソップ型」というのは、鶏ガラのような細い体型ということから来ている。
 その醤油味のちゃんこと、塩味、味噌味、そして水炊き、という風にメニューのバラエティがある。ちゃんこ「巴潟」では、味噌味と塩味には鰯のつみれが入り、ソップちゃんこには鶏肉が入る。縁起担ぎで「鶏肉」しか入れない。
 相撲の世界では四つ足の動物の肉は敬遠するのが基本。この話は前から聞いていたが、足の裏以外を土俵に付ければ負けの相撲ルール、四つ足は「両手」を地面に付いているので避ける。ということで二本足の鶏肉というわけだ。
 相撲部屋の食事、鍋が基本にあってあとはカレーの日もあれば他の料理の日もある。しかし、どうしても平均すれば鍋の回数が多くなるので、毎回味を変えという、そりゃそうだろう。多くの人が、ちゃんこ鍋を食べると力士のように太ると思っているが、魚介類と野菜が中心なので、太る料理ではない。

 ちゃんこ「巴潟」には、親方の遺言があって「部屋で出したままの味わいのちゃんこは店に出すな」といわれたそうだ。ちゃんこの味について遺言するには恐れ入った。
 「ですから、部屋で食べていたちゃんこの進化した形のものをお客様に提供しているんです」というのだが、力士が日常食べるちゃんこと、お客さんに向けて作る商売用のものとどこがちがうか? 
 「今、店で出しているソップちゃんこのスープは一日六時間ぐらいかけてじっくり出しているんですが、相撲部屋ではそこまで時間をかけることはしません、時間が短いです。それぐらいが相撲部屋の食事レベルであって、店で出しているスープの場合、使っている鶏ガラの量も圧倒的に多いし、スープをとる時間も違います」。
 なるほど、聞いてみるもんだ。そしてもう一つ。
 「あとは味つけで、相撲部屋で食べるちゃんこは、実は少し甘いんですよ」という。力士が汗を流し、体を動かしたあとに食べるという条件もあってだろう、昔から甘味が強かったという。甘味として砂糖を入れたものだそうだ。店のちゃんこは甘くしない。これには驚いた。へぇ、友綱部屋だけなのかどうかを聞きそびれた。力士が他の部屋のちゃんこを口にする機会はあまりないらしい。相撲界にいれば、自分がいた部屋で親方になるか、相撲界を離れれば他の部屋を訪ねてちゃんこを食べる機会もまずないのである。

 さすがに三十年もの歴史の店になると、本場所がある時期だけでなく年中変わらない人気だとのこと。場所中は、相撲を見てその帰りに寄る人が多いので予約で満員になる。遠い土地の人だと、本場所を見に来ることが大きな楽しみであり、それとセットで巴潟のちゃんこを味わうのが喜び。そういうタイプの常連客がいる。店は店なりに、そういうお客さんを培ってきた。
 間抜けな質問だったが、相撲取りは来ないものですか? と聞いた。
 力士は自分の部屋で食べるから、ほとんど顔を出さないものだとのこと。ただし、中日などに後援会の人が力士を連れてきたり、また、地元から来た両親が子供である力士を、また団体で上京した人たちが、郷土の期待を担った青年力士を連れてくることがたまにあるそうだ。
 「力士にしてみれば、お金出してちゃんこを食べることはないですからね」、といわれて笑ってしまった。

 チェーンの居酒屋などに「ちゃんこ」があることに、少し気持が揺れている取締役統括部長であった。「居酒屋さんのちゃんこに、四つ足の肉(豚や牛、あるいはラムなど)が入っていますけれど、相撲界ではそういうことはないです」とはっきりいっていた。力士が作る料理をすべて「ちゃんこ」というのだから、ちゃんこを名乗って料理を出してもかまわないけれど、「ちゃんこと名乗るからには、そこにストーリーが欲しい」とつぶやいた。
 「せめて元力士が作るとすればいいのですが、今では巴潟も元力士が作っているわけではないですからね」と、これは苦しい。それにしても、巴潟を名乗ってちゃんこを出しているにはそれなりの背景、物語がある。「ちゃんこ」にはこれが必要です、なのだそうだ。


 その三・錦糸町 人形焼き

 人形焼きといえば、浅草か。生まれたのはその名の通り人形町といわれている。しかし今回、両国の、というより正しくは錦糸町の人形焼き屋を取材することになった。
 私は酒を飲む人間と思われているが、同時に和菓子の好きな男でもある。

 あえて店の歴史を聞く必要はなかったが、単に菓子屋ではなく人形焼き屋になったいきさつは知りたかった。取締役社長に聞いた。
 「父は卵屋だったんですよ。戦前からやってました。いや、卵屋は今もやっているんですけれどね。浅草の卵問屋で修業していた父は、卵を卸している店で儲かっている処があるのを見て、戦争から戻ってきてから卵屋をやりながら菓子屋商売もできないものかと考えたそうなんです」ということである。元々が、千葉の農家で卵を集めて卸す商いをしていた人形焼き屋である。朝、農家を回って卵を買い集め、街に出て売るという商売、今では珍しいが、あるにはあるのだ。実は、卵だけではなく、砂糖と小麦粉も商っていたもので、人形焼きの原料が初めから揃っていたのである。他に、餡があればいいだけ。
 「人形焼きを作るといっても、そのために改めて仕入れるものがいらない。新たに仕入れる必要がなくいい材料が安く手に入る、これは利点ででした」と言うのである。いい素材を使って作っても安く売れるということになる。普通、人形焼きの原料の善し悪しをそうそう気にしないかも知れないが、長く食べてもらえばこれがわかるのではないかと思ったところが、さすが。
 「いまウチが人形焼きを作っている原料で価格を計算すると、他の三分の二からものによっては三分の一の価格、それでいてよそ様とは使っている素材が(いい方に)違うんですよ。よそから仕入れる餡も国産の小豆を使い、ザラメを使う。指定して作ってもらっています。卵も奥久慈の卵、あの、最近は親子丼対決などでマスコミに登場して知られるようになった卵を使っているんですけれどね、これをウチは三十年以上も仕入れ続けていて長いつき合いもあるから安定して仕入れることができる。その上に粉も扱っていたし、仕入れるのは餡だけ。まったく外にお願いするのは包装紙だけですよ」ということで、「こだわり」といういやな言葉は使わなかったが、いいものを作ってお客さんに喜んでもらえれば、商売が成り立つという確固とした自信を持っての商売である。

 現在作っているのは四種類の人形焼き「狸、太鼓、三笠山、紅葉」。この中の「三笠山」には餡が入っていない。特別の理由はないそうだが、厚みがないので餡が入れにくいことと、お客さんの中に「一つぐらいは餡のないものがあっていいし、皮だけでも美味しいから」という声が少くないそうだ。以前はほかにも人形の形があって、鮎と鈴があった。ところが、どうしても形によって売れ行きが違う、そういう事情があって人気のあるものを残したという。
 この人形焼きの形による売れ行きの違いについては、売っている社長にも理由がわからないと言う。原料が同じ、味が同じでも、形の好き嫌いが出てしまうらしい。
 この店では元々、場所にちなんで「本所七不思議」にあやかり、「落ち葉なしの椎」「消えずの行燈」「馬鹿囃子」「置いてけ堀」「送り提灯」「津軽の太鼓」「片葉の葦」を表した七種類の人形焼きを作っていた。ところが、売れるもの売れないものの偏りが大きく、売れ残りがちなものは作らないようになる。
 今売っている中の、狸は「夜どこからともなく聞こえてくる馬鹿囃子」を歌っているのが狸だという怪談があっての形。太鼓は「津軽の太鼓」で、この界隈にあった津軽藩の藩邸で時を知らせるために打っていた太鼓にちなむということだ(これが不思議に入るのは、一般に藩邸で時を知らせるのに鉦を用いたのに、津軽藩だけが太鼓だったという不思議)。これにシンプルな形、ほぼ円盤の三笠山と、常に人気の高い紅葉が現在の商品である。このあたりの形は人形、とは言いにくいが、まぁ、それはそれ。

 時代に合わせて、あたらしい「人形」の形は考えないものですか? と聞いてみたら面白い話が出てきた。
 暮に「第九」の合唱会があるので、そこで出すために「ベートーベン」の顔の人形焼きを作ってくれといわれたそうだ。墨田区立のコンサートホールがあって、そこの関連で「ベートーベンの顔の使用権を持っているので、大丈夫」といわれたそうだ。これには笑った、そういう使用権利があるのだ。しかし、十二月だけの限定商品になってしまうだろうし、必要な日が限られている上に、その日の入場者数に合わせて焼くというのが難しく二の足を踏んでいるそうだ。なんでも、人形焼きの型代だけで百万円かかるという。ベートーベンの顔の人形焼きで百万円を稼ぎ出すのは、簡単ではないと素人も思う。
 また、墨田区に新しいタワーができると決まったので(その頃の取材)、タワーの人形焼きを作ってくれと区長からも声がかかっているらしい。タワーを表現する人形焼きのデザインは案外難しいらしいが、昔、五重塔の人形焼きがあったそうで、それをヒントになんとかならないか、とは思っているという。五重塔のデザインをタワーに転用できないかというのが、人形焼きならでは、か。
 「ウチの人形焼きは粉の量が少ないんですよ」という。粉が多いと型がはっきり出せるが、この店の人形焼きは粉が少なめで卵が多くカステラ生地に近いから、細かい表現はできないという意味だ。だから新しいタワーについてもその模様の出し方を考えつつなんとか、ということのようだ。

 この店の人形焼きはハチミツ(純国産で、蓮華100%)を多めに使っているので、長持ち。といっても、余計なものを入れていないからそうそう長くは持たない。新しい小豆の時期になると、餡にははっきり小豆の味が出るのが自慢。水道水ではなく電気分解した水を使って、素材の味が出るように気を配っているそうだ。
 カステラに近い生地ということは、堅くならないということであり「実は、冷えてからが旨い」のだそうだ。温かいうちにも旨いけれど、冷えても旨いし、時間が経つと餡の水分がカステラ風の皮に移って、しっとりするというのだ。
 これには気づかなかった。こんな風にして人形焼きを吟味して味わったことはない。
 冷えた人形焼きは、揚げると旨い。高温で揚げると大変美味しいと教えてくれた。以前、人形焼きが余ったとき、もったいないので揚げて卵関係の方に配ったことがあるそうだ。そうしたら「またあれが欲しい」といわれ、これには困ったと社長。
 うまい人形焼きを作るについて「卵屋をしていたことが大きかったと思います。おいしいものを安く売っていれば、ほどほどにやっていけるような気はしますね」と。
 こうした商売で問題になる後継ぎだが、息子がもう人形焼きを焼いている。
 「継ぎそうな気配で、その予定でやってくれていると思います」といったあと、今の若い者は将来を厳しく見ているので、その商売が儲かるとなれば継ぐのではないか、という。地域性のある商品で安定性があり、そして話題があれば、次の世代もやる気にはなるはずということだ。なるほど、いい話であった。





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