(メールマガジン"ZEKT"寄稿コラム バックナンバー)

vol.10:美味いものをゆっくり食する
2003年09月28日(日)配信分
 われわれのような生業ですと、特に「お昼」などは、時間との闘いといった食事になりがちで、そのうえ財布の中身も寂しいものですから、どうしても「美味いものをゆっくり」なんて気分になれないものです。わたしの修業時代なんぞは、食べるのが遅いのは悪、みたいな風潮でしたんで、その時の習性がナカナカ抜けずに、今でもサカサカと食べてしまいます。でもまあ、仕事の中での昼食は「限られた時間」ですから、それを自分なりに上手く配分して満足感を得れば良い、としなければ仕方がないでしょう。5分で主食を平らげて、残り40分はコーヒーと新聞でのんびり、なんてのも良しでしょうな。こういった「作戦立案」も、この際クリエイティブだと言ってしまいましょうや。偏屈不器用貧乏性のcaveでございます。

 あわただしい「お昼」の話はさておき、「美味いもの」と接することは、ヒトの人生の中の「喜び」の大きな部分を占めると言って良いと思われます。ところが、この「美味い」と感じる基準、これ個々の感性に支配されるものですから、複雑です。貧乏性のわたしは、外での食事となると「美味いが高い」ものを、イキナリ「不味い」と判定してしまい、どうも素直に味そのものを評価することができません。景気の按配がこんな折ですから、あながちわたしだけの事とも言えず、外食産業各社の艱難辛苦もいかばかり…というところですが、企業努力のおかげか、ひと昔まえに比較すればずいぶん安価で美味しいものにありつけるようになりました。

 しかし、それは徹底した「合理化」によって実現されたものですので、「安い」「そこそこ美味い」はクリアされても、プラスチックの箱みたいな座席で食しなければならず、「美味しく食べる環境」というような配慮はカットされますから、文字どおり「味気ない」食事となりがちです。わたしは、味気ない食事も「不味い」なんて決めつけてしまうもんですから、もはや街中で美味いものを「自腹」切って食べる機会は無くなりますな。そうなると中途半端なものを喰って中途半端な料金を払うのが馬鹿馬鹿しくなりまして、イキオイ、ラーメン牛丼ハンバーガーなんて超貧相な方向でお茶を濁し、冒頭に書いたような「作戦立案」を組みあわせてトータルでなんとか納得できる「食」の時間を構築して、トコトン安く済ますという、まさに食のデフレスパイラルに陥ってしまうのであります。どうもあきません。

 そんな具合ですから、グルメグルマンなんて言葉とは、とんと縁のないわたしなんですが、素人なりに考えますと、「美味いもの」というのは、調理よりも素材の占めるウエイトが大きいのではないか、となってしまいます。近海物の魚貝が重宝されるのも、その鮮度がポイントなんでしょうな。極端に言えば、寿司職人の腕の巧拙も、素材の良し悪しに比較すれば、味に与える影響など微小なものだと思ってしまうわけです。玄人の人には怒られるかもしれませんがね。そうしてその「鮮度」の良い食材を口にしようと思うと、べらぼうに高く付く羽目になってしまっております。

 この日本列島という地域は、天然食材の産地としましては、世界一とも言えるような好条件に恵まれたところでありまして、四季のある温暖な気候、南の黒潮、北の親潮、オホーツクに、豊かな森林、湧き出る清水などが育む食材は、それこそ天下一品でありましょう。全くラッキーな地域に産まれ落ちたもんです。ところが、狭いところに小金を持った卑しい連中が溢れるほど生息しておりますので、昔のように、ひょいと近所で捕ってたんじゃ全然足りないというんで、他所から冷凍して持ってくるようになってしまった。これが不幸の始まりですな。あげく都会では、そういうわざわざ遠くから運ばれてきた冷凍食材を、レシピや料理人という「付加価値」を絡めて誤魔化し、また雑誌や料理番組やCMなどで煽って、なんとか「美味いもの」のイメージを構築・維持しようと躍起になってやっております。もともと、「味」なんて、同じものを食べている隣の人が同じように感じているのかどうかも怪しいてな曖昧なものですから、そういう情報に頼って、洗脳されてしまわなければ、安心して「美味い」と思えないところもあります。ま、広告屋にとっては顔を出しやすい領域と言えましょうがね。

 こう、ぼやき倒していると、貧乏性には「美味いものをゆっくり食する」なんて、もはや諦めざるを得ないようなご時世ですが、なにしろ「食」は「喜び」。捨て置くには忍びない。そこでわたしが土俵際で食い下がっておりますのが、「焚火料理」です。

 雑木林や河原に分け入り、焚火を熾してコッフェルを掛け、のんびり肴をつくり、炎を見つめながら酒を呑むんですな。食材は、野宿地近くの食料品店で地元産の新鮮なものを購入します。酒もご当地の蔵のものがあれば、それをぶら下げて山に入ります。焚火を前に、その時手に入った酒と食材で、どんな料理を作るのかを思案します。これがまた愉しい。まあ地酒の味の傾向に合わせて、つくる料理を決めるのがベストですが、あれこれ工夫してやると、手の内にある食材と調味料だけでも、バラエテイ豊かな絶品の数々が生まれてくるから面白い。酒を片手にそれを摘み摘み、焚火の加減を見ながら、ゆっくりと森の一夜を過ごします。で、満腹して酔っ払ったら寝袋に潜り込んで眠ってしまう、という実にテキトーな「焚火料理」なんですが、なにせ周囲は自然のなかですから、環境が「味気ない」ことがありません。

 野外での食事は何を喰っても美味い、などと、簡単なカレーライスやバーベキューばかりつくって食べている方々は多いですが、あれは実に勿体ないと思いますな。野外で「工夫」することを「愉しみ」だと自覚さえすれば、面倒な、それこそレストランで饗されるような本格料理も、その場でつくることができます。焚火をみつめながらそれに舌鼓を打てば、「何を喰っても美味い」効果がプラスされて、そりゃもう最高ですぞ。要は工夫と遊び心です。これ、実にクリエイティブな趣向だと自画自賛しているんですが、あきませんかね。

 と、いうようなわけで、街で身銭を切って「美味いものをゆっくり食する」ことは、ほぼ諦めてしまったようなわたしですが、産地近くの市場まで足を運べば、最高の山海の素材が比較的安価に、まだまだ溢れている日本。ま、そこまで行くのが大変ですがね。行っても現地で料亭などに入ってしまうと、これがまた贅沢なことになってしまうんですな。なもんで貧乏性は仕方なく、時折焚火の前でその仇討ちをして、自らの「食」への欲望をちょっぴり納得させているような次第です。みなさんもいかがです?